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ジョン・ウィールライト : ウィキペディア日本語版
ジョン・ウィールライト

ジョン・ウィールライト(、1592年頃 - 1679年)は、イングランドアメリカピューリタン聖職者であり、無律法主義論争の間にマサチューセッツ湾植民地から追放され、現在のニューハンプシャー州エクセター町を設立したことで知られている。イングランドリンカンシャーで生まれ、そこそこ資産のある家で育てられ、ケンブリッジ大学シドニー・サセックス・カレッジで学士号および修士号を取得した。学生時代は著名な運動選手であり、またオリバー・クロムウェルが学友だった。1619年に牧師に叙任され、リンカンシャーのビルスビーで教区牧師となり、聖職売買のために排除されるまでこの地位に10年間あった。
ウィールライトは1636年にニューイングランドに向けて旅立ち、義兄弟の妻アン・ハッチンソンがその宗教的発言で否定的な注目を集め始めていたボストンで温かく歓迎された。ウィールライトとハッチンソンは間もなく、ジョン・コットン牧師の「恵みの契約」神学信奉者として、「行いの契約」を信じる植民地の牧師や司法官の大多数を非難するようになった。この論争が頂点に達すると、ハッチンソンもウィールライトも植民地から追放された。ウィールライトは1637年から1638年の厳冬期に、ウィリアム・ウェントワースを含む追随者集団を連れて北に移動し、1638年4月にはニューハンプシャー植民地でエクセターの町を設立した。しかし、マサチューセッツ湾植民地はその地域に対して以前から持っていた権利を発動させ、追放者であるウィールライトの立ち退きを強制したので、ウィールライトがエセックスに居られたのは数年に過ぎなかった。ウィールライトはさらに東、現在のメイン州ウェルズに移転し、そこに住んでいる間に追放令が取り消されたが、依然として罪は残っているというようなやり方だった。ウィールライトはウェルズからマサチューセッツに戻り、ハンプトン(当時はマサチューセッツ湾植民地内、その後ニューハンプシャー植民地内)で説教を行い、そこで教区民の助けを得て、1654年に、17年前の追放に対してマサチューセッツ裁判所から完全な無罪証明を手に入れた。
1655年、ウィールライトは家族と共にイングランドに戻り、リンカンシャーの故郷近くで説教を行った。イングランドに居る間に、イングランドの護国卿になっていたオリバー・クロムウェルと、政府で重要な役職を幾つか占めていたヘンリー・ベインという強力な友人2人によってもてなされた。イングランドにいた6年強の間に政治の流れが大きく変化し、クロムウェルが死亡し、ベインが処刑された後は、ウィールライトはニューイングランドに戻り、ソールズベリーの牧師となり、そこで余生を過ごした。ウィールライトは論争好きで信念を曲げない者と特徴づけられるが、寛容でもあり、精力的であり、勇敢でもあった。その心からの信心深さについては、意見が大きく異なる者達からも疑問にされることはなかった。
== 初期の経歴 ==
ジョン・ウィールライトは1592年頃に、イングランドのリンカンシャーにあるカンバーワースとセイルビー出身であるロバート・ウィールライトの息子として生まれた。1612年に父が死ぬと、ウィールライトは地産を管理し、リンカンシャーにおける資産の承継者にもなった。祖父もジョン・ウィールライトという名であり、1611年にマンビーで死んでいた。ウィールライトはケンブリッジ大学シドニー・サセックス・カレッジで学び、1614年から1615年の教育年度に学士号を、1618年には修士号を取得した。学生時代は著名な運動選手であり、アメリカの著名ピューリタンであるコットン・マザーが「ウィールライトが大学で若く活発であったとき、レスリングでは通常の者以上の能力で知られた」と記していた。学友の中にオリバー・クロムウェルが居り、後にイングランドの護国卿として名声を得た。
大学を出た後、1619年12月19日に助祭に叙任され、翌日にはアングリカン・コミュニオンの牧師に按手された。1621年11月8日、ビルスビーの教区牧師トマス・ストアの娘メアリー・ストアと結婚した。1623年、トマス・ストアが死んだときに、ウィールライトがビルスビーの教区牧師となり、その職を10年間続けた。妻メアリーが1629年に死亡し、同年5月18日にビルスビーで埋葬された。ウィールライトはそれから間もなくアルフォード出身のエドワード・ハッチンソンの娘メアリー・ハッチンソンと結婚した。妻の兄弟にウィリアム・ハッチンソンが居り、その妻がアン・ハッチンソンだった。
教区牧師としての10年間の後、ウィールライトはニューイングランドへの旅費を得るために、その庇護者にビルスビーの牧師職を売ろうとした後の1633年に停職となった。ウィールライトは必要な資金を得られる代わりに、聖職売買のために有罪となり、その職から完全に外された。ウィールライトはビルスビーから排除された後の1633年6月、娘のエリザベスが洗礼を受けたレイスビーに行こうとした。その後ベローで暫く説教師をしていたが、間もなくそのピューリタン的発言に対して聖公会当局から発言を封じられ、イングランドを脱出して移民となる計画を立てはじめた。1636年、ウィールライトは2度目の妻、その母スザンナ・ハッチンソン、および5人の子供たちを連れてイングランドを離れた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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