翻訳と辞書 |
ジョン・コルポイズ
サー・ジョン・コルポイズ(Sir John Colpoys、1742年-1821年4月4日)はイギリス海軍の士官であり、バス勲爵士である。3つの戦争に従軍し、1797年のスピットヘッドとノアの反乱を引き起こした一人でもある。この時コルポイズは海兵隊に、仕官に反抗的な水兵への射撃を命令したため反乱を招いたのであった。このため第一線から退いたが、ナポレオン戦争中は、陸上の幕僚勤務での巧みな行政手腕で、官僚に大きな影響を与え、後にとなり、バス勲章を授与されて、グリニッジ病院の院長を務めた。 ==海軍入隊== コルポイズはダブリンの事務弁護士で、ウィリアム・ヨーク主席裁判官の事務官であった父ジョンの息子として生まれた。子供時代については知られていないが、1742年頃の生まれとされている。1756年に海軍に入隊したと考えられているが、この年は七年戦争が勃発した年で、1758年にルイブールの戦いに、その4年後にに参戦しているのは確かである。これらの戦役におけるコルポイズの戦いぶりは特記すべきものではなかったが、この2つが彼の唯二の敵との交戦経験であったといってよい〔Colpoys, Sir John , ''Oxford Dictionary of National Biography'', J. K. Laughton, (subscription required), Retrieved 9 October 2008〕。マルティニークでの任務の際にコルポイズは海尉に昇進し、1770年に初めて艦長となって、小型フリゲートのの指揮を執った。同じ年にコマンダー(その当時はマスター・アンド・コマンダー、元々庸入した商船の指揮を執った熟練海尉のこと)に昇進し、1773年にはまたも昇進してとなり、戦列艦の艦長となった。 アメリカ独立戦争の勃発と共に、コルポイズはフリゲート、の指揮官となったが、この艦でヨーロッパの海域を航海していたため、目ぼしい海戦には出会わなかった。1778年、このフリゲートから降りて間もなく、コルポイズは軍法会議の判事として召集された。この軍法会議は1778年のウェサン島の海戦直後に厳しい状況におかれたへの査問であり、説示されたように、法廷ではパリサーが潔白であることが証明され、コルポイズは海へ戻って北アメリカ艦隊のの指揮官となった〔。この艦で指揮を執っている時、コルポイズはと共に勝利をあげた。1781年にアメリカのフリゲート、を追跡して捕獲したのであった。そして1783年に地中海艦隊所属のフリゲート、の指揮を執ったが、このフィービはアメリカ独立戦争において最後に乗った艦となり、その数か月後にはフィービは退役した〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョン・コルポイズ」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|