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ジョン・ヒンクリー
ジョン・ウォーノック・ヒンクリー・ジュニア(John Warnock Hinckley, Jr. 1955年5月29日 - )は、1981年3月30日に当時アメリカ合衆国大統領だったロナルド・レーガンを銃撃した犯人。 映画『タクシードライバー』に出演したジョディ・フォスターに恋し、ストーキングを行い、同映画のストーリーに影響を受けつつ大統領暗殺未遂という事件を起こした。 == 生い立ち == ジョン・ウォーノック・ヒンクリーJr(ジュニア)は、同姓同名のJohn Warnock Hinckley, Sr ジョン・ウォーノック・ヒンクリー・シニアを父として、JoAnn Moore Hinckleyジョアン・ムーア・ヒンクリーを母として、3人兄弟の末っ子として、オクラホマ州アードモアで生まれた(ジョンは父親と同姓同名で、二人はSrとJrを付けて区別されている)。父親は、軍隊を経て、戦後石油業界で活躍し、自ら石油会社「ヴァンダービルト・エナジー」社を設立、社長として成功し財をなしていた人物であった〔(J.W.) "Jack" Hinckley, Sr 〕。ジョンは、そのような裕福な一家で将来活躍することを期待されつつ誕生したのであった。 ジョンはテキサス州とコロラド州で幼年期および少年期を過ごした。ジョンにはスコットという優秀な兄がいた。弟のジョン (Jr) も小・中学校では成績優秀なスポーツマンで人気者であった〔John Hinckley Case Crime Library〕。しかし、高校に進学するころになると状況は一転し、ジョンはスポーツもせず、友人も作らず、女の子とデートもせず、家に引きこもり、ギターをかきならす日々を送るようになった〔。兄が優秀でエリートの道を進みつつあったのに対し、ジョンは落ちこぼれてしまい、精神的に追い込まれてゆく。1973年から1980年までで休学と復学を繰り返した。寮で黒人と同室になると黒人を嫌い、白人至上主義の本を読みふけるようになった〔。1976年にはソングライターになることを望みロサンゼルスに行くが、成功しなかった。そのころ彼が両親宛てに送った手紙は、自分の身の上の不運を嘆く言葉と金銭的援助を請う言葉で満ちている。そして彼はコロラド州の両親宅へ戻った。地元のレストランで下働きのアルバイトを数か月したのち、再びカリフォルニアに戻ったり、大学に戻ったりの生活をしていた〔。このころ体調不良を訴えて大学のクリニックにしばしば通い、精神安定剤や抗うつ薬を飲み始める〔。銃を購入し、1979年には、白人優位と保守主義を唱える政治サークルを結成し、1980年には「Listalot リストアロット」という名の名簿販売会社を設立した〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョン・ヒンクリー」の詳細全文を読む
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