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ジョン・ピーター・ラッセル(、1858年6月16日 - 1930年4月22日)は、オーストラリア出身の印象派の画家。 == 生涯 == ジョン・ピーター・ラッセルは、1858年、シドニー東郊ので生まれた。父ジョン・ラッセルはスコットランドの技師であり、小さい時にオーストラリアに渡り、兄の経営するエンジニア工場P・N・ラッセル社に加わった。母シャルロット・エリザベス(旧姓ニコル)はロンドン生まれの女性である。ジョン・ピーターはその4人兄弟の長子である〔Galbally.〕。 ジョン・ピーターは、弟のパーシー(後に画家)とともにニューサウスウェールズ州のゴールバーン校に通った。18歳の時から、イングランド・リンカンのエンジニア会社ロビー社で徒弟として働き、技師としての技術を身につけた。他方、子供の時から絵への興味を持ち続け、靄の中のリンカン大聖堂を水彩で描いている〔。 1877年、父ジョンはシドニーで業績不振であったエンジニアリングの仕事をたたんだ。そして1879年急死した。ジョン・ピーターは、自分の将来を考えなおす機会を与えられることになった。シドニーに1年間滞在した後、1881年1月5日、ロンドンのに入学し、3年余りフランス出身の画家の下で学んだ。それからパリに出てフェルナン・コルモンの画塾に入り、1年半勉強した。コルモンの画塾でフィンセント・ファン・ゴッホと知り合い、彼の肖像画を描いている〔。このほか、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、エミール・ベルナールらも同塾生であった。 1883年、終生の友人、とともにスペインを旅した。1887年にはシチリア島を訪れている。1888年2月8日、パリでオーギュスト・ロダンのイタリア人モデル・マリアンナ (Marianna Antoinetta Matticco) と結婚した。その年、彼はブルターニュ半島の沖にあるベル=イル=アン=メールに移り住んだ〔。 ゴッホとの交友関係は続いており、1888年パリからアルルに移ったゴッホは、ラッセルに仕事の進捗状況を知らせるために12枚の素描を送った。ゴッホ死後の1897年、アンリ・マティスは、ベル・イル島のラッセルを訪れ、印象派やゴッホの絵を紹介されて衝撃を受けた。ラッセルはこの時、マティスにゴッホの素描12枚のうち1枚を与えている。マティスは、後に「ラッセルは私の師だった。ラッセルは私に色彩の理論を教えてくれた。」と述懐している。 1908年、妻マリアンナが亡くなると、ベル・イル島を去ってパリに移り、娘で歌手のジャンヌとともに南仏へ向かい、一時イタリアのポルトフィーノに住んだ。1912年6月17日、パリでアメリカ出身の歌手カロリーン (Caroline deWitt Merrill) と再婚した。第一次世界大戦の開戦で、5人の息子がイングランドで連合国軍に加わったのを機に、1915年、自分もイングランドへ戻った。第1次世界大戦が終わると、4番目の息子シウォードとともにニュージーランドへ移った。ここで2年間の滞在中、数々の水彩画を描いた後、シドニーのに行き、舟からの港の風景をしばしば描いた。1930年4月22日、シドニー南東郊ので心臓発作により亡くなった。妻と、彼女との間の息子1人、そして最初の結婚で生まれた子供6人が残され、遺産を相続した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョン・ピーター・ラッセル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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