|
ジョン・ロバート・ボルトン(、1948年11月20日 - )は、アメリカ合衆国の政治家・外交官。前米国国連大使。 メリーランド州ボルチモア生まれ。1970年にイェール大学を卒業、1974年同大学ロー・スクール修了(法務博士 J.D.)。ネオコンの代表的な人物で、国務省きってのタカ派。「親イスラエル」・ブルーチームと呼ばれる親台派の一人でもある。 == 政策・人物像 == 法律事務所勤務、保守派の大御所的存在ジェシー・ヘルムズ上院議員の補佐官を経て、1981年のレーガン政権の8年間、国際開発庁および司法省に勤務し、1989年から1993年まで、ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ政権で国務次官補を務める。担当は対国際連合。クリントン政権期は保守系シンクタンクのアメリカン・エンタープライズ公共政策研究所副所長に就任し、クリントン政権の外交政策に対して一貫して批判を続け、アメリカ新世紀プロジェクト(PNAC)にも関与した。 2001年、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ政権によって国務次官(軍備管理・国際安全保障担当)に任命され、北朝鮮との六者会合やイランの核開発問題などを担当する。ボルトンが金正日体制を激しく批判していることから、北朝鮮はボルトンを「人間のクズ」と激しく批判した。北を巡っては同じように金正日体制を激しく糾弾してきた安倍晋三と内閣官房副長官時代に関係を深めた。安倍の外交戦略をあらわした論文「アジアの民主主義的安全保障ダイヤモンド」ではボルトンが発言した「北京の湖」が引用されている〔Asia’s Democratic Security Diamond by Shinzo Abe - Project Syndicate 〕〔John Bolton: As China Muscles Into the Pacific, the U.S. Lacks a Strategy - WSJ.com 〕。また、開戦への慎重論が少なくなかった国務省内の対イラク開戦推進派としてイラク戦争への流れをつくる。 2005年、国際連合大使に推され、ブッシュ政権は民主党や共和党穏健派の異議を押し切って8月に任命を強行(連邦議会閉会中任命の為未承認)。上院が承認しなかった為、2006年12月4日に辞任を表明し年内に任期満了で退任した。在任中は北朝鮮とイランの圧政を国務次官時代と同様一貫して激しく批判しており、両国に対する強硬路線を主導した。 2006年7月5日に北朝鮮が行ったテポドン2号発射及び、同年10月9日に強行された核実験の後は安倍(当時内閣官房長官)や外務大臣(当時)の麻生太郎と共に北朝鮮への制裁路線を推進。10月15日には対北制裁決議の採択を実現する。バンコ・デルタ・アジアの北の不正資金凍結も断行した。 国連を軽視する発言等で何かと物議をかもしているが、それが後に失脚する一因となっている。また、日本の国連常任理事国入りと台湾の国連加盟を支持している。 国連大使退任後はブッシュ政権の対北融和路線を激しく批判。拉致被害者家族からの信頼も厚く、2007年11月に北朝鮮による拉致被害者家族連絡会・北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会が訪米した際、最初に面会した要人である。また、北朝鮮の脅威に対抗するために日本と大韓民国が核武装を検討することを主張している。 セルビアからのコソボ独立についてボルトンは、「コソボがイスラーム過激派の温床になるかもしれない」と懸念を表明、安易に独立を認めたブッシュ政権の政策を批判する論文をローレンス・イーグルバーガー元国務長官と共にワシントン・タイムズに寄稿した。 またウゴ・チャベス大統領のアメリカ批判に対しては、「チャベスこそ言論の自由を自国民に与えていない」と返答した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョン・ボルトン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|