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ジョン・マクダウェル(John Henry McDowell, 1942年生まれ〔John McDowell - Philosophy - University of Pittsburgh 〕)は、南アフリカ出身の哲学者。のフェローを経て、現在ピッツバーグ大学教授。著作の主題は、形而上学、認識論、古代哲学、メタ倫理学など多岐にわたるが、心の哲学と言語哲学の領域における功績で最もよく知られている。2010年の功労賞受賞者に選ばれた。 マクダウェルは一貫して、哲学を「治療的」なものとして捉えており、「あらゆるものごとをあるがままにしておく」という、ある種の静寂主義をとっている(ただし、自分が「静寂」であると彼が考えているわけではない)。静寂主義者にとって、哲学は問題(例えば、思考や言語は世界とどのような関係にあるか)に対して説明を与えることはできないとされる。その代わりに、哲学的な問題を引き起こす事柄を再記述することで、混乱した哲学者を知的に静寂な状態へと連れ戻すのである。このように静寂主義的な態度をとるマクダウェルは、現代の哲学者たちの議論における誤りを治療的に解きほぐすとともに、各種の主題(言語、心、価値など)に関して独創的で際立った見解を練り上げている。マクダウェルは、北米の哲学業界を支配している還元的な自然主義に対抗する見解を打ち出そうとしているのである。 ==経歴== ===初期=== マクダウェルはユニバーシティ・カレッジ・オブ・ローデシア・アンド・ニヤサランド(現在の)で学士号を得たのち、1963年にローズ奨学金を得てオックスフォード大学のに入学した。 マクダウェルの論文で初めて活字となったものは古代哲学に関するものだ。初期の仕事として最も注目に値するものは、プラトンの『テアイテトス』の翻訳・注釈である。1970年代には、自然言語に意味理論を与えるというドナルド・デイヴィドソンのプロジェクトに精力的に携わり、と共に『真理と意味』という論文集を編んだ。また、死後出版となったエヴァンズの『指示の諸相』(1982年)の編集を行った。 マクダウェルは初期の著作において、デイヴィドソンの意味論的プログラムに携わると同時に、ある激しい論争にも参戦した。それは、意味の理論となるものの中核には真理条件の把握があるとする論者と、そうではなく主張可能性条件の把握こそが言語による理解に伴わねばならないものだという、マイケル・ダメットに代表される論者の間で起きた対立である。ダメットによれば、もし意味の理論たるものがその中心において話者の理解を表現すべきものであるならば、その理解とは、それを話者が把握していることを示しえねばならないようなものである。マクダウェルは、このダメットの見解、ならびにそれを発展させたらに異議を唱える。マクダウェルによれば、彼らの主張は、ダメット自身も認めるように、意味の理論に関するウィトゲンシュタイン的な基準を満たさない。つまり、この主張は、他者の発話における心的表現の根拠となるものと、〔他者の発話にて〕表現された思考の間には非対称性があるという、疑わしい議論にもとづいているということだ。このマクダウェルの反論はまさに、彼が依拠している基本的な洞察を反映したものである。それは、我々の他者理解は、自らの実践の「内側」からなされる、という考えである。ライトとダメットは、行き過ぎた説明をしようとしており、言語活動を「外的」観点から理解しようとするクワインと同じ轍を踏んでしまっているとされる。 上記の論争と、それに並行して行われた、ウィトゲンシュタインによる規則順守にまつわる記述の解釈を巡る議論を通じて、マクダウェルの独特な思想は形成されていった。ウィトゲンシュタイン的な表現でその特徴を並べるならばこうだ。経験論抜きでの実在論の擁護、客観性を求めることに対する限界の強調、意味と心は、行為(特に、他者に対する言語的行為)において直接示されうるという考え、そして知覚経験の選言主義、これらである。 選言主義とは、マクダウェル流の実在論をもとにして展開された、知覚経験に関する立場である。選言主義の立場からすると、錯覚論法は間接的・表象主義的な知覚の理論を支持するとは言えない。なぜなら、錯覚論法は、真正な知覚と錯覚(あるいは幻覚)の二つが、「最大公約数」を共有しているという誤った前提をとっているからである。(知覚することと信念をもつことの間には明確な違いがある。人が「曲がって見える」水中の棒切れを目にしながら、それが本当に曲がっているわけではないと信じ、自分の見ているものは錯覚である、と考えることはありうる。錯覚において、表象の通りに物事があると信じる必要はない。一方、幻覚では、それを見ている人は自分が経験しているように信念を抱く。したがって、錯覚論法はむしろ、そこでポイントとなっている議論をはっきりさせるならば、幻覚論法というべきである。) 古典的な錯覚(幻覚)論法は、例えば、マットの上にいる猫を知覚することに成功するケースと、光の加減によって、マットの上に猫などいないのにそう見えてしまい、そう信じてしまうようなケースを比較せよ、などと要求する。錯覚論法の支持者は、これら二つのケースにおいて、心的状態に関する重要な共通点があるといい、それを名指すために「センス・データ」のような概念を持ちだそうとする。こうしたデータを見知ることこそが二つの事例の「最大公約数」だというわけだ。この議論に従えば、人がもつ外的世界に関する知識は、センス・データという媒介物を通した間接的なものであると認めなければならなくなりそうだ。マクダウェルはこのような議論に強く反対する。マクダウェルは、本物の猫を見た人と、猫を見ているようで実は見ていない人の間に、何かしらの心理的共通点があることを否定するわけではない。だが、見ている対象に関する知識を得ているかどうか判定する際に、そのような心理的共通点は、判断を下すものの心的状態の位置づけに関して何の意味も持たないとされる。条件が整ってさえいれば、経験は、対象の現前を観察者にはっきりと示すような形で得られるであろう。それこそが知覚的知識なのだ。我々が何かを知覚して対象の知識を得るときには、経験は、知られる対象である事実を把握し損ねることはない。だが、このことが示すことは、成功した知覚的思考と失敗したもの〔=知覚的思考〕の間には、それが知識であるかどうか判定するという観点からすると、特になんの目立った共通点もない、ということである。 真正な知覚と真正でない知覚の間には最大公約数などない、という議論には、マクダウェルの仕事全体に通ずるある主題が浮き彫りになっている。すなわち、思考は社会的・文化的環境においてのみ個別化できるものだという、心的なものに関する外在主義へのコミットメントである。マクダウェルは、心的なものに関する外在主義一般に加え、指示表現をどう理解するかに関する、ある主張も擁護している。それは、固有名詞についてのいわゆる「単称的」ないし「ラッセル的」な思考にまつわるものだ(この議論には、ガレス・エヴァンズからの影響が表れている)。この主張によれば、もしある指示表現によって名指される対象が存在しなかった場合、そのような対象に依存した思考はありえないとされる。つまり、文字通りの意味で、そのような対象は思考することなどできないというわけだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョン・マクダウェル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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