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ジョン・マンデヴィル(Sir John Mandeville、? - 1372年11月12日?〔ミルトン『コロンブスをペテンにかけた男』、132頁〕/11月17日?〔〔マンデヴィル『東方旅行記』(大場正史訳)、284頁〕)は、中世イングランドの騎士。中東、インド、中国、ジャワ島、スマトラ島の見聞録『東方旅行記(マンデヴィル旅行記)』の著者として知られる。 ヨーロッパ外の奇習・風俗を記したマンデヴィルの旅行記はヨーロッパ中の注目を集め、各国語に翻訳された〔愛宕「マンデヴィル」『アジア歴史事典』8巻、395頁〕。テューダー朝時代の探検家ウォルター・ローリーはマンデヴィルの記述に誤りは無いと述べ、クリストファー・コロンブス、マーティン・フロビッシャーはマンデヴィルの著作に刺激されて航海に出た〔ミルトン『コロンブスをペテンにかけた男』、12頁〕。しかし、実際のところマンデヴィルの旅行記はの百科事典、プラノ・カルピニやウィリアム・ルブルック、オドリコらアジアを訪れた修道士の報告を元に書かれたものだった〔マンデヴィル『東方旅行記』(大場正史訳)、291-293頁〕。ヨーロッパ世界の地理学の知識が発達するにつれて旅行記はマンデヴィルの空想に基づくものだと見なされるようになり、17世紀には虚言癖の著述家として風刺劇に取り上げられるようになる〔ミルトン『コロンブスをペテンにかけた男』、73頁〕。著作の内容と同様にマンデヴィル自身の経歴、職業、存在自体も疑問視されている〔ミルトン『コロンブスをペテンにかけた男』、18頁〕。 また、マンデヴィルの文章力は高い評価を受けており、かつてはシェイクスピア以上の名文家と賞賛されていた〔マンデヴィル『東方旅行記』(大場正史訳)、282頁〕。しかし、ヴィクトリア朝時代に文学者としての評価は下がり、当時出版された『ブリタニカ百科事典』第9版では著作だけでなくマンデヴィルの経歴をも虚偽だと断定されている〔ミルトン『コロンブスをペテンにかけた男』、339頁〕。近年では「ジョン・マンデヴィル」を作品内の「語り手」とみなし、旅行記の作者と分けて考える傾向にある〔大沼「『マンデヴィルの旅行記』と「装置」としての語り手」『同志社大学英語英文学研究』91号、2頁〕。 == 旅行記中の「ジョン・マンデヴィル」 == マンデヴィルは、イングランドのセント・オールバンズの出身の騎士を自称している〔マクラウド『世界伝説歴史地図』、108頁〕。1322年/1332年の聖ミカエルの日(9月29日)にマンデヴィルは遍歴の旅に出、数十年の歳月を経て旅行記を執筆した〔マンデヴィル『東方旅行記』(大場正史訳)、276-279頁〕〔写本によってマンデヴィルの出立の年と旅行記の執筆を終えた年は異なる。1889年に刊行されたエガートンの英訳本では旅立ちの日が1332年、他の写本では1322年となっている。執筆を終えた年について例を挙げれば、最古の写本の一つと考えられているパリ本では1357年、1725年に刊行されたコットンの英訳本とエガートン本では1366年となっている。(マンデヴィル『東方旅行記』(大場正史訳)、276-279,283,289-290頁)〕。作中で旅行の目的は明確にされていないが、エルサレムなどの聖地巡礼〔大沼「『マンデヴィルの旅行記』と「装置」としての語り手」『同志社大学英語英文学研究』91号、2-3頁〕。あるいは傭兵としての働き場所を求めるため〔〔Catholic Encyclopedia (1913)/Jean de Mandeville 〕〔大沼「『マンデヴィルの旅行記』と「装置」としての語り手」『同志社大学英語英文学研究』91号、4頁〕だと説明されている。旅行記の著者であるマンデヴィルの不明瞭な人物像は、語り部の立場や視点を場によって変えながら目撃した事象を述べることで、著者が参考とした異なる立場の人間が書いた様々な文献を一つの紀行文にまとめる役割を果たした〔大沼「『マンデヴィルの旅行記』と「装置」としての語り手」『同志社大学英語英文学研究』91号、5-6頁〕。 マンデヴィルの遺体はリエージュ近郊のギレルマン教会に埋葬されたと言われ、多くの旅行家が彼の墓碑を詣でたが、フランス革命の際に教会は破壊された〔。また、マンデヴィルの故郷セント・オールバンズ大修道院にも彼の墓碑が置かれており、かつては修道院にマンデヴィルの石像が飾られていたと伝えられている〔ミルトン『コロンブスをペテンにかけた男』、131,199-200頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョン・マンデヴィル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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