翻訳と辞書
Words near each other
・ ジョン・マレー (第3代アソル公)
・ ジョン・マレー (第3代アソル公爵)
・ ジョン・マレー (第4代アサル公)
・ ジョン・マレー (第4代アサル公爵)
・ ジョン・マレー (第4代アソル公)
・ ジョン・マレー (第4代アソル公爵)
・ ジョン・マロット
・ ジョン・マローン
・ ジョン・マンジェリ
・ ジョン・マンデヴィル
ジョン・マークス
・ ジョン・マーシャル
・ ジョン・マーシャル (1833年生)
・ ジョン・マーシャル (原子力潜水艦)
・ ジョン・マーシャル (航海士)
・ ジョン・マーシャル・スレイトン
・ ジョン・マーシャル・ワトソン
・ ジョン・マーチン
・ ジョン・マーチン・シェバーリ
・ ジョン・マーティン


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ジョン・マークス : ウィキペディア日本語版
ジョン・マークス

ジョン・マークスJohn Marks, 1952年12月9日 - )は、オーストラリアニューサウスウェールズ州シドニー市出身の元男子プロテニス選手。1978年全豪オープン男子シングルス準優勝者。シングルス自己最高ランキングは63位。ATPツアーでシングルス優勝はなかったが、ダブルスで7勝を挙げ、マーク・エドモンドソン1976年全豪オープン優勝者)と組んで多くの好成績を出した。
1975年にプロ入りし、同年末のシドニー・アウトドア大会でシングルス準優勝・ダブルス優勝を記録する。この大会でペアを組んだマーク・エドモンドソンが、マークスにとって最も重要なパートナーになった。1977年にマークスは男子ツアーのダブルスで年間3勝を挙げたが、パートナーはそれぞれ違う選手と組んだ。この年に全豪オープンは開催時期の変更を行い、年頭の1月開催大会と年末の12月開催大会の2度実施される。そのため、マークスが男子シングルスで準優勝した1978年全豪オープンは12月の年末開催に移行した。1978年度のテニス4大大会開催順序は、全仏オープンウィンブルドン全米オープン → 全豪オープンの順番になる。これが現在とは異なる点であり、注意を要する。
全豪オープン準優勝があった1978年は、彼がダブルス選手として最も好調だった年でもある。ジョン・マークスとマーク・エドモンドソンは、全仏オープンウィンブルドンの男子ダブルスで連続ベスト8に入った後、全米オープンで男子ダブルスのベスト4に入った。準々決勝で(当時はまだ新人選手だった)ジョン・マッケンローピーター・フレミング組(ともにアメリカ)を破った2人は、準決勝でマーティー・リーセンシャーウッド・スチュワート組(この組もアメリカペア)に 3-6, 4-6 で敗れた。これがマークスの4大大会ダブルス自己最高成績である。年末開催に移行した全豪オープンで、マークスは1回戦で第2シードのホセ・ルイス・クラークアルゼンチン)と当たった。第1セットを 7-6 で奪ったクラークが途中棄権したため、マークスが勝者となり、ここから波に乗って決勝戦に勝ち進む。準決勝のアーサー・アッシュ戦では、シングルスでは無名の伏兵だったマークスが、第3シードの黒人選手に 6-4, 6-2, 2-6, 1-6, 9-7 の勝利を収めた。決勝戦では第1シードのギレルモ・ビラスに 4-6, 4-6, 6-3, 3-6 で敗れ、2年前(1976年)のエドモンドソン以来となるノーシード選手としての全豪優勝を逃した。
1979年、マークスはエドモンドソンと組んでダブルス年間2勝を獲得したが、この年を最後にエドモンドソンと離れた。4大大会シングルスではすべて1回戦敗退に終わり、全豪オープン1回戦でフィル・デント1974年男子シングルス準優勝者)に 3-6, 2-6, 2-6 で敗れた試合が、彼の最後のグランドスラム出場になる。マークスの選手経歴は短期間で終わり、全豪準優勝から2年後の1980年に28歳で現役を引退した。生涯通算成績もシングルスは「27勝74敗」と少なく、全豪オープン以外の4大大会成績は1978年全仏オープン1978年ウィンブルドンの2回戦止まりであった。

== 外部リンク ==

*


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジョン・マークス」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.