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ジョン・モルガン : ウィキペディア日本語版
ジョン・モルガン

ジョン・ピアポント・モルガン(John Pierpont Morgan、1837年4月17日 - 1913年3月31日)は、アメリカの5大財閥の1つであるモルガン財閥の創始者。
ゲッティンゲン大学を卒業後、ロンドンで父が起こしたJ・S・モルガン・アンド・カンパニーを受け継ぎ、19世紀末には世界最大の銀行家となった。その豊富な資金力を活かして多くの鉄道を経営・統合し、USスチールも設立した。19世紀末にアメリカ最大の財閥の1つとなった。海運・電力・通信事業にも進出した。
彼は巨大な芸術品コレクションをニューヨークメトロポリタン美術館コネチカット州ハートフォードのに遺贈した。
1913年イタリアローマで死去。75歳であった。モルガンは終生米国聖公会のメンバーであった。1890年までは指導的立場でもあった。彼の財産とビジネスは息子の、通称ジャックに引き継がれた。
1994年から彼の歴史を振り返ると、ロスチャイルドロックフェラーチャーチルアヴェレル・ハリマンらと閨閥をつくっていることが分かる〔広瀬隆 『地球のゆくえ』 集英社 1994年 系図3
:掲載されている人物は著名でなくてもコネクションを形成するに足る社会的地位を持つ。ホワイト&ケースパリ事務所長のPaul Pennoyerはその一例。〕。彼らとは生前からビジネスで協力する関係にあったとみられる。1913年の連邦準備制度の設立にも積極的かつ組織的に関与したものと考えられる〔状況証拠は編集者が現時点で挙げるもので3点。①秘密会議の行われたジキル島の所有、および系図に登場したジョン・ロックフェラーの後押しするウッドロウ・ウィルソンが、②オーウェン・グラス法に署名し、③制度設計者のウィリアム・マカドゥーに子を嫁がせている事実である。〕。
外交官のジョセフ・グルーも家族関係である。CIA の前身であるOffice of Strategic Services にはモルガン家が在籍した。ジョンの会社JPモルガンは、ラモントのときに関東大震災復興資金のシ団を代表した。こうしてモルガンは日本の政治経済に浅からぬ影響を残した。
== 生誕から青年まで ==
ジョン・ピアポント・モルガンはコネチカット州ハートフォードで生まれた。父はマサチューセッツ州ホールヨーク出身の銀行家ジューニアス・スペンサー・モルガン1814年 - 1891年)、母は教会の牧師の娘だったジュリエット・ピアポント(1816年 - 1884年)。父方の系譜は源流のウィリアムが名家「トレデガー・モーガン」と姻戚関係にある。同家は海賊ヘンリー・モーガンのいることで知られている。
ピアポントは、父・ジューニアスにより種々の教育を授けられ、1848年秋、ハートフォード・パブリック・スクールに転科した後、チェシャの英国国教会アカデミー(Episcopal Academy、現チェシャ・アカデミー)に首席で進学。1851年9月には、キャリアとなるために有効な数学に秀でているボストン・ハイスクールに入学した。
1852年9月、リウマチ熱に罹患し、歩けないほどになった。ジューニアスはすぐに船を手配し、モルガンをポルトガル北部のアゾレス諸島に転移療養させた。約1年後に回復し、ボストンに戻って勉学を続けた。
ハイスクール卒業後、ジューニアスによりスイスヴェヴェイ近くにある学校に進学。流暢なフランス語を取得後、今度はドイツ語取得のためにゲッティンゲン大学に進学。6ヶ月である程度のレベルに達し、芸術の歴史もかじったあとヴィースバーデン経由でロンドンに戻り、学業を修了した〔http://www.financial-inspiration.com/JP-Morgan-biography.html〕。
1857年、モルガンは父の経営する銀行のロンドン支店に入社。翌年、ニューヨークに移り、ジョージ・ピーボディ・アンド・カンパニーのアメリカ代理店であるダンカン・シェアマン・アンド・カンパニーに勤務(ジョージ・ピーボディを参照)。1860年には、J・P・モルガン・アンド・カンパニーを設立し、父の会社のニューヨーク代理店のエージェントの役割を果たした。1864年には、ダブニー・モルガン・アンド・カンパニーを構成。1871年フィラデルフィアの銀行家であるアンソニー・J・ドレクセルAnthony Joseph Drexel I)と提携し、ドレクセル・モルガン・アンド・カンパニーを設立した。ドレクセルが1893年に死去した後、1895年J・P・モルガン・アンド・カンパニーとなり、現在のJPモルガン・チェースへとつながる。
南北戦争時には、モルガンは旧式のライフルを1挺3.50ドルで購入し、改良したのちに22ドルで北軍に売却するというスキャンダルがあった。モルガン自身は他の富裕層同様、1000ドルを代理人に支払うことで兵役を免れていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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