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ジョン・リスト事件(ジョン・リストじけん、英:John List)とは、1971年にアメリカ合衆国で発生した一家殺人事件である。すぐさま被疑者は特定されたが、事後工作により事件発覚が1ヶ月も遅れたことで逮捕までに18年かかった。 == 事件の概要 == === 事件の発覚 === 1971年12月7日、ニュージャージー州ウェストフィールドに住む、ドイツ系アメリカ人の会計士ジョン・リスト(1925年9月17日生まれ、当時46歳)の豪壮な館は、1ヶ月もの間、人の気配がないにもかかわらず夜になると電燈がついており、中からはクラシック音楽が昼夜問わず大音量で流されていた。そのため近所から通報が警察に寄せられていた。そのため警察官がこの日踏み込んだところ4人の遺体が部屋に置かれた寝袋の上にあるのを発見した。 4人は当時45歳の妻ヘレンと10代の子供3人「長女パトリシア、長男ジョンJr.、次男フレデリック」であった。2階の寝室には当時85歳のジョンの母エルマ〔幼い頃から息子にエリート会計士になるよう命じ、勉強を強いて友人との時間を制限していた。〕の遺体が発見された。いずれも射殺だった。子供の最期の足取りから、一連の犯行は11月9日に行われたと判明した。最初に妻を殺害し、次いで母親、そして下校してきた子供達を次々に射殺したと断定した。これはジョンが一連の犯行を認めた地元の教会の牧師宛の手紙を残していたためである。その手紙のなかで犯行動機として、多重債務と仕事の失敗が重なって解雇され経済的破綻に陥ってしまったこと、また子供たちが演劇やロックやオカルトにうつつをぬかしており、宗教的成長が見込めないこと(ジョンはルーテル教会の信者だった)などを上げており、家族5人も殺害した行為を自己正当化するものであった。ジョンはクーラーを効かせて遺体の腐敗を防止し、更には子供達が登校しないのを不審に思われないように学校にはノースカロライナ州にいると連絡し、郵便物も現地の郵便局留めにする手続きをとるなど偽装工作をしていた。 ジョンの乗用車はニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港で発見され、母親の銀行口座から現金を引き出しており、遠くに逃亡したのは確実であった。全米に指名手配された他、ジョンはドイツ語が堪能であったため、国外にも手配されたが長年にわたり身柄を拘束することができなかった。なお惨劇の舞台となった彼の家は1972年8月30日に不審火で焼失した。 豪壮な邸宅に住みリスト家は資産家と近隣住民には思われていたが、人の目を見て話せないほど大人しくて内気でありながらプライドが高く見栄っ張りなジョンがそう見せかけていただけで、実際は財政が逼迫していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョン・リスト事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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