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ウラジーミル・ヴォリフォヴィチ・ジリノフスキー(, ラテン文字表記の例:, 1946年4月25日 - )は、ロシアの政治家、ロシア軍大佐、ロシア自由民主党の創設者および同党の党首、ロシア下院国家会議副議長。欧州評議会議員会議(:en:Parliamentary Assembly of the Council of Europe)の委員でもある。 その極右的な発言や活動からロシア民族主義者と思われがちだが、ジリノフスキーは自身は純粋なロシア人ではなく、父方を通じてユダヤ人の血を引き継いでおり、ロシア人名に改名する前にはユダヤ人の名前を持っていたユダヤ系ロシア人である。父の墓はイスラエルにあり、父の墓を訪れたこともあるが、米国同時多発テロを「アメリカとイスラエルの自作自演」と発言するなど、反ユダヤ、ユダヤ陰謀論的な発言も多い。ロシア語、トルコ語、英語、フランス語、ドイツ語の5カ国を話し〔http://www.youtube.com/watch?v=TlG6TohT0gw〕、中東及びカフカス問題の専門家を自称する。 ソ連崩壊以降の歴代政権に対して批判を繰り返すも、法案採択などに当たっては与党に同調することが多い。「東京に原爆を落とせ」など、過激な言動で知られるロシアの右翼政治家である。家族は妻のガリーナ・レベデワと息子のイーゴリ・ウラジーミロヴィチ・レベデフ。 その政党名にもかかわらず、ロシア自民党は大抵「過激な民族主義政党」と呼ばれている〔Diary: Campaign circus , BBC News, 20 November 2007〕〔Vladimir Zhirinovsky (Russian politician) -- Britannica Online Encyclopedia 〕〔Russian nationalist Zhirinovsky nominated for president , RIA Novosti, 13/ 12/ 2007〕〔Zhirinovsky Beat Russia's top nationalist had a busy week abroad , ''Time Magazine'', Feb. 14, 1994〕。 == 生い立ちと教育 == 1946年4月25日、ソビエト連邦時代のカザフ・ソビエト社会主義共和国の首都・アルマアタ(現在のアルマトイ)にて、法律家の家庭に生まれる。生まれた時の苗字は「エイデリシュチェーイン」(Эйдельште́йн)〔ドイツ語の「エーデルシュタイン」(Edelstein)に由来するユダヤ人の苗字である〕。1964年7月、ジリノフスキーはアルマアタからモスクワに移住し、モスクワ大学にてトルコ、アジア、アフリカといった東方の国々の言語の研究を始める。1965年から1967年までは、マルクス・レーニン主義大学国際関係学部にも所属しており、国際関係学を学んだ。1972年から1977年までモスクワ大学法学部の夜間部で学び、優秀な成績で同大学を卒業した。1998年にはモスクワ大学にて哲学の博士号の候補者にもなっている。 法学の学位を取得したジリノフスキーは、州の委員会や組合の様々な役職に就く。 1969年から1970年、ソ連国営テレビ・ラジオ会社で研修を受ける。また、コムソモールでも活動する。1970年、ソ連軍ザカフカス軍管区参謀部で将校として勤務し、ソ連平和擁護委員会西ヨーロッパ部門で働く。1983年から1990年までは、出版社「ミール」に勤務していた。 1970年代の初期には、トビリシにて兵役に就いていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウラジーミル・ジリノフスキー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Vladimir Zhirinovsky 」があります。 スポンサード リンク
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