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ポートモレスビー作戦(ポートモレスビーさくせん)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)中のニューギニア戦線において、日本軍と連合国軍とがポートモレスビーの支配を巡って行った戦闘。当時はスタンレー作戦と呼ばれ、連合軍側の名称を和訳して、前半をココダ道の戦い (Kokoda Track campaign) 、後半をブナとゴナの戦い (Battle of Buna-Gona)とも呼ぶ。 == 背景 == 開戦後、グアムの攻略につづきニューブリテン島のラバウルを攻略した日本陸軍の南海支隊の1個大隊が、1942年3月7日サラモアに上陸し、同日に日本海軍の陸戦隊がラエへ上陸した。同年5月、日本陸軍と日本海軍は協力してポートモレスビーを攻略するため、第一航空艦隊の一部と第四艦隊で「MO作戦」の実施を決定し、ソロモン諸島ツラギの攻略は妨害こそあったが成功した。しかし、肝心の海路によるポートモレスビー攻略を珊瑚海海戦でアメリカ海軍に妨害され、日本海軍は中止してしまった。さらに、同年6月に生起したミッドウェー海戦における日本海軍の敗北が影響し、サモア諸島及びフィジー諸島攻略(FS作戦)は中止されることになった。これによってソロモン諸島・ニューギニア方面の拠点であるラバウル基地(ラバウル航空隊)は一層重要度を増した。それは、ラバウルの安全を脅かすポートモレスビーの攻略が重要性を増すのと同義であった。 日本陸軍は東部ニューギニアのオーエンスタンレー山脈(最高峰4,000メートル)を越え、直線距離にして220キロを陸路で侵攻するポートモレスビー攻略作戦「レ号作戦(別名、スタンレー作戦)」を実施するため、新設された第17軍に南海支隊(支隊長:堀井富太郎陸軍少将)を編入、第17軍に対して作戦名をリ号研究と称した偵察を命じた。南海支隊は第55師団の一部の歩兵第144連隊(高知)と山砲兵第55連隊第1大隊などで編成されていたが、FS作戦に投入される予定であった歩兵第41連隊(福山)とマレー作戦に投入された独立工兵第15連隊を編入し、強化が図られた。 大本営はリ号研究の結果を待って作戦の可否を決定することにしていた。しかし、7月15日に大本営参謀辻政信中佐がダバオの第17軍司令部を訪れた時に、「今や『リ号』は研究にあらずして実行である」と述べて、大本営が陸路攻略を決定したことを通知し、これを受けて第17軍は18日に攻略命令を出した。ところが、7月25日に服部卓四郎大本営陸軍部作戦課長から第17軍に、リ号研究の結果について照会する電報が送られた。だが、これによって辻が独断専行によって命令をすり替えたていたことが判明したにもかかわらず、それが問題になることもなく、作戦はそのまま実行されることとなった〔戦史叢書 14 p.180、p.191〕。 一方、ミッドウェー海戦で勝利を収めたアメリカ海軍は逆にラバウルを奪還するため、手始めに同年6月、ソロモン諸島に拠点を構えようと、ガダルカナル島占領を目指すウォッチタワー作戦を計画、8月7日ガダルカナル島に上陸した。また、フィリピンを脱した南西太平洋方面連合軍司令官ダグラス・マッカーサー陸軍大将はフィリピン奪還のためにオーストラリアを拠点にした反攻を計画した。そのため、オーストラリアの前哨ともいえるポートモレスビーの安全を確保することは重要であり、ニューギニア島北岸を占領するにもポートモレスビーの基地が重要な役割になることが予想された。マッカーサー大将はオーストラリア軍最高司令官トーマス・ブレーミー陸軍大将の指揮下にあるニューギニア部隊(ニューギニア・フォース)の司令官であるバジル・モリス少将にブナの確保を命じ、モリス少将は豪第39大隊を飛行場があるココダへ進撃させた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ポートモレスビー作戦」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kokoda Track campaign 」があります。 スポンサード リンク
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