|
スティーブ・ライト(Stephen "Steve" Wright、1953年12月24日 - )は、イギリス・チェシャー州ウォリントン出身の元プロレスラー〔。生年月日は1952年12月12日ともされる〔『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P35(2002年、日本スポーツ出版社)〕。 イギリスやドイツなどヨーロッパを主戦場に、日本では1970年代半ばから1980年代にかけて、新日本プロレスのリングで活躍。ヨーロピアン・スタイルの洗練されたレスリング技術と、軽業師を思わせるアクロバティックな動きを武器に、初代タイガーマスクらと好試合を展開した〔〔『THE WRESTLER BEST 1000』P217(1996年、日本スポーツ出版社)〕。 息子のアレックス・ライトも元プロレスラーであり、1990年代にアメリカのWCWで活動した(嫌米ギミックのドイツ人ヒール "ベルリン" として知られる)。 == 来歴 == ビリー・ライリー・ジムでトレーニングを積み〔、1969年に英国のジョイント・プロモーションズにてデビュー。1972年に旧西ドイツに渡り、当時のAWA世界ヘビー級王者バーン・ガニアとも対戦している〔。1974年はメキシコに遠征し、その提携ルートでアメリカのNWAロサンゼルス地区でも試合を行った〔『デラックス・プロレス 1982年5月号』P60-61(1982年、ベースボール・マガジン社)〕。 1975年1月、新日本プロレスに初来日。以降も新日本の常連外国人選手となり、1977年10月の来日では、負傷したクルト・フォン・ストロハイムの代打としてパット・パターソンのパートナーに起用され、12月8日に蔵前国技館にて坂口征二&ストロング小林の北米タッグ王座に挑戦した〔。 1982年3月には第5回MSGシリーズに来日(リーグ戦には不参加)。3月4日に後楽園ホール、4月1日に蔵前国技館にて、タイガーマスクのWWFジュニアヘビー級王座に連続挑戦し、名勝負を残している〔〔。なお、木戸修はライトについて「自分が戦ったレスラーでは一番上手かった」と語っている〔2009年のスネークピット・キャラバントークショーにおける木戸本人のコメント(週刊プロレス『流智美のプロレス検定塾』 週刊プロレス 2009年12月23・30日合併号文中より)〕。 ヨーロッパでは1980年代よりドイツのニュルンベルクに居住し、ポール・バーガーやアルフレッド・ジーグラーのプロモーションで活動〔。1985年12月20日にはオットー・ワンツ主宰のCWAにて、前王者トニー・セント・クレアーの返上で空位となっていたCWA世界ミドル級王座をトーナメントに勝ち抜いて獲得。以降、1987年7月にミレ・ツルノに敗れ一度はタイトルを失うも、マーク・ロコ、トム・プリチャード、新日本プロレスから遠征してきた山田恵一、越中詩郎、ヒロ斎藤らを相手に防衛を重ね、1990年から1991年にかけてはデイブ・フィンレイを相手に王座を巡る抗争を展開した〔。 CWAではミドル級戦線で活躍する一方、ブル・パワー、テキサス・スコット、ムーンドッグ・レックス、ランボー、ボブ・オートン・ジュニアなど、北米のヘビー級選手とも対戦している〔。1991年12月にフィンレイにミドル級王座を奪われてからはセミリタイア状態となるも、以降も1990年代末までドイツのマット界で活動した〔。 なお、ドイツではローラン・ボックの興行には参加したことがないが〔、ボックは「強く印象に残ったレスラー」として、ジョージ・ゴーディエンコ、アントニオ猪木、アンドレ・ザ・ジャイアント、ダニー・リンチらに加え、ライトの名前も挙げている〔『Gスピリッツ Vol.21』P11(2011年、辰巳出版、ISBN 4777809463)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「スティーブ・ライト」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|