|
スティーブ・ペリマン(Steve Perryman、1951年12月21日 - )は、イギリス・イングランド・ロンドン出身の元イングランド代表サッカー選手、サッカー指導者。 ==経歴== 選手時代は主にトッテナム・ホットスパーに在籍。長年に渡って主将を務め、リーグ戦854試合出場(カップ戦などを含めると994試合)のクラブ最多出場記録を持っている。1982年にはFWA年間最優秀選手賞を受賞、イングランド代表として1試合に出場した。 1998年シーズン途中から清水エスパルスの監督に就任。前監督のオズワルド・アルディレスの戦術を引き継ぎながら、選手には徹底したフェアプレーを要求した。このフェアプレー精神は相当なものであり、特に相手の反則を誘うための常套手段である「転倒した時に大げさに痛がる」ことを大変嫌っており、「フェアな試合をして勝つ能力がないことを露呈しているだけだ」という言葉を残している。また、オフサイドトラップを一切使わないのも特徴である。 ペリマン時代は現在に至るまで清水の黄金期であり、1999年には2ndステージを制している。サントリーチャンピオンシップで同年1stステージ優勝のジュビロ磐田に敗れ年間優勝は逃したが、年間の獲得勝点の合計では2位を大きく突き放しての1位だった。年間獲得勝点1位は清水の65、2位は柏の58、3位は名古屋の54。年間優勝となった磐田は49で年間獲得勝点では6番目であった。この経緯もあり、当時絶頂期に入りつつあった同じ静岡県のチームであるジュビロ磐田をライバル視する発言も多かった。ペリマンは当時のJリーグの年間優勝の決定方法も含め、試合日程や判定等でも磐田が他のチームよりも贔屓されていると考えていたようであり、「JリーグのJは“ジュビロのJ”だ」と発言したこともある。2000年は年間8位に沈み、同年で清水の監督を辞し離日。 しかし2001年途中に柏レイソルのヘッドコーチに招聘され再来日。同年1stステージ終了後に柏は西野朗が解任され、ペリマンが監督に昇格。しかし、その後も勝ちきれないゲームが続き、2ndステージは、1stステージよりも順位を上げる事ができず7位に終わる。翌2002年の1stステージでは、元ブラジル代表のセザール・サンパイオとエジウソン・ダ・シルバ・フェレイラを獲得しながらも、チームをまとめきれず柏にとってワースト記録となる7連敗を喫し解任された。 その後、ジェフ市原からジョゼフ・ベングロシュ監督の辞任に伴い監督就任のオファーが届いたが、ペリマンはオファーを断った。 その後はイングランド1部リーグ、エクセター・シティで監督を務めた後、現在は同クラブでディレクター職に就いている。2012年5月、試合観戦中に心臓発作で倒れ、緊急手術を受けたことが明らかにされている〔【J2日記】町田:日本の友人、教え子から…。病床のスティーブ・ペリマン氏に送るメッセージ(12.06.05) - J's Goal、2012年6月5日〕。 自分の信念を曲げない人物であり、時としてそれにこだわりすぎるところもある。選手の起用法が好例で、完全にレギュラーを固定し、選手交替ですらも画一的であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「スティーブ・ペリマン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Steve Perryman 」があります。 スポンサード リンク
|