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ステファン・ウロシュ2世ミルティン : ウィキペディア日本語版 | ステファン・ウロシュ2世ミルティン[すてふぁんうろしゅ2せいみるてぃん]
ステファン・ウロシュ2世ミルティン(、、1253年 - 1321年10月29日)は、セルビア王国の王(在位1282年 - 1321年)。バルカン半島南部に領土を拡大し、「セルビアとフム、ディオクレア、アルバニアの地、及び沿岸地方の王」を称した〔S.クリソルド編『ユーゴスラヴィア史』,p. 106〕。 == 生涯 ==
=== 治世初期 === ステファン・ウロシュ1世の末子として生まれ、アンジュー家出身のヘレナを母に持つ。兄ステファン・ドラグティンが退位したことで急遽王位に就き、即位時点で29歳を超えていた。即位当時、シチリア王シャルル・ダンジュー、ローマ教皇マルティヌス4世らが反ビザンツ(東ローマ帝国)活動を積極的に行っており、ウロシュ2世はテッサリアの支配者ヨハネス1世と協力してマケドニアのビザンツ(東ローマ帝国)領を攻撃した〔尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』,p. 790〕。1282年〔尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』,p. 794〕に歴代のセルビア王が達成できなかったスコピエを初めとするマケドニア北部の獲得に成功し〔井上浩一、栗生沢猛夫『ビザンツとスラヴ』,p. 328〕、スコピエを首都に定めた。ビザンツ皇帝ミカエル8世は対セルビア戦争の準備を始めるが、準備が整う前に没し、翌1283年にミルティンは彼の兄弟と共にビザンツ領の奥深くまで進攻してカヴァラにまで達した。1284年にはアルバニア北部およびディラキウムを支配下に置いた。15年間戦況に変化は無かったが、アンドロニコス2世からビザンツの王女の婚姻を条件とした和平が提案され、休戦に至った。当初はトレビゾンド皇帝ヨハネス2世の未亡人でアンドロニコス2世の姉妹であるエヴドキアがウロシュ2世の妃に選ばれたが、エヴドキアが結婚を拒否したため、わずか5歳であったアンドロニコス2世の娘シモニスがセルビアに嫁ぐことになった〔。ウロシュ2世はこの婚姻によってドラグティンに対して優位に立つことができ、また国威の向上にもつながると考えて提案を受け入れた〔。婚姻の際にウロシュ2世がビザンツとの戦争で獲得した征服地は婚資としてそのままセルビアに属し、征服したビザンツの領土はセルビアの宮廷文化と行政制度にビザンティン文化の影響を及ぼした〔。
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