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ステファン・バックランド(Stéphan Buckland、1977年1月12日 ‐ )は、モーリシャスの元男子陸上競技選手。専門は短距離走。100mで10秒13、200mで20秒06の自己ベスト持つ、両種目のモーリシャス記録保持者。 インド洋に浮かぶ小国モーリシャスが生んだ世界レベルのスプリンター。2003年に200mでアフリカ歴代3位(当時)の20秒06をマーク。世界選手権とオリンピックの200mではメダル獲得こそないものの、2004年アテネオリンピックで6位、2001年エドモントン世界選手権で6位、2003年パリ世界選手権と2005年ヘルシンキ世界選手権で5位の実績を持つ。年間王者決定戦であるワールドアスレチックファイナルの200mには2006年と2007年を除く全ての大会に出場し、2008年シュトゥットガルト大会では優勝して自身初のビッグタイトルを獲得した。 == 経歴 == 2000年9月、シドニーオリンピックに出場すると、100mは2次予選で10秒26(+0.8)の組4着に終わり、準決勝に進出できる組3着とは0秒01差で敗退。200mでは準決勝まで進出したが、決勝に進出できる組4着までには入れず、20秒56(-1.1)の組6着で敗退した。 2001年7月、フランス語圏競技大会では100mと200mと4×100mリレーの3冠を達成した。100mでは決勝で10秒13(+0.7)のモーリシャス記録を樹立し、2年前に1999年セビリア世界選手権の100mで銀メダルを獲得しているブルニー・スリン(10秒18)を破っての優勝を成し遂げた。 2001年8月、エドモントン世界選手権に出場すると、200mは2次予選を20秒23(+1.2)のモーリシャス記録(当時)で突破。準決勝でも20秒15(+1.0)のモーリシャス記録(当時)を樹立して決勝に進出したが、2位と7位が0秒05差という大混戦となった決勝は20秒24(+0.1)の6位に終わり、2位・3位とは0秒04差でメダルを逃した。アンカーを務めた4×100mリレーは、予選を38秒99のモーリシャス記録で突破したが、準決勝は39秒25の組7着で敗退した。 2003年8月、パリ世界選手権の200mに出場すると、1次予選を全体2位の20秒38(+0.7)で突破。2次予選ではアフリカ歴代3位(当時)およびモーリシャス記録の20秒06(+0.7)を樹立し、全体1位で準決勝に進出すると、準決勝は2次予選のタイムに迫る20秒11(+0.6)をマーク。全体2位で2大会連続となる決勝に進出したが、決勝では今大会で1番悪いタイムの20秒41(+0.1)をマークし、3位とは0秒03差の5位でメダルを逃した。 2003年9月14日、年間王者決定戦であるワールドアスレチックファイナルの200mに出場すると、20秒44(+0.1)をマークし、ジョシュア・ジョンソン(20秒35)、ショーン・クロフォード(20秒37)に次ぐ3位に輝いた。 2004年8月、アテネオリンピックの200mに出場すると、1次予選を全体1位の20秒29(+1.5)、2次予選を全体8位の20秒36(+0.1)、準決勝を全体5位の20秒37(+0.2)でそれぞれ突破し、オリンピックで初の決勝に進出した。決勝では今大会で1番のタイムとなる20秒24(+1.2)をマークするも6位に終わった。 2004年9月19日、ワールドアスレチックファイナルの200mに2大会連続の出場を果たすと、20秒41(+0.7)をマークし、アサファ・パウエル(20秒06)、フランク・フレデリクス(20秒31)に次ぐ3位に輝いた。 2005年8月、ヘルシンキ世界選手権の200mに出場すると、3大会連続となる決勝に進出するも20秒41(-0.5)の5位に終わり、3位とは0秒10差でメダルを逃した。 2006年3月、コモンウェルスゲームズに出場すると、200mでは初めて決勝に進出。決勝は20秒47(+0.5)をマークしたオマー・ブラウンと同タイム着差ありの2着に敗れ、ビッグタイトルをわずかな差で逃した。 2008年8月、北京オリンピックの200mに出場すると、準決勝で20秒48(+0.1)の組6着に終わり、2大会連続の決勝進出はならなかった。 2008年9月14日、ワールドアスレチックファイナルの200mに4度目の出場を果たすと、20秒57(-0.1)をマークし、ポール・ヘッション(20秒58)、ブレンダン・クリスチャン(20秒61)らを破り、31歳にして初のビッグタイトルを獲得した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ステファン・バックランド」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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