|
ストラボン( / Strábôn、, 紀元前63年頃 - 23年頃)は古代ローマ時代のギリシア系の地理学者・歴史家・哲学者。全17巻から成るギリシャ語で書かれた『』(または地理誌、, Geōgraphiká)で知られる。この大著は、当時の古代ローマの人々の地理観・歴史観を知る上で重要な書物となっている。 == 生涯 == ストラボンの出自や生涯は『地理書』の記述の中で若干触れられている(記載の地域縁の人物に自らの故郷や恩師が登場すると、その人物と自身との関係が記載される)。小アジア北部にあったポントゥスのアマセイア(現トルコ領:アマスィヤ)の裕福な家庭に生まれる。当時はポントゥス王国が滅亡しローマの属州となったばかりであった。家系はポントス王国の有力者に連なり、母方の先祖はミトリダテス6世の乳兄弟であった。最初は小アジアのニュサに学び、後にローマにて哲学と地理学を学んだ。 哲学の立場としては、アリストテレス派、後にストア派になり、政治的には、ローマ帝国を支持していた。 ストラボンの生涯は旅に特徴付けられる。その範囲は西はイタリア半島西岸のトスカナ、南はエチオピアに及ぶ。地中海沿岸諸都市のみならずエジプト、クシュなど内陸にも旅し、その見聞を元に17巻からなる『地理書』(')を示した。(多くは現存している)この著の完成時期は不明であるが、記載内容からティベリウスの治世の時に多くは書かれたものと推測されている。この著作は、地中海沿岸の都市の詳細な叙述で知られ、地域の記載のみならず歴史やその都市の伝説にまで触れて、当時の歴史・地理を知る上で重要な書物である。23年頃にアマセイアにて没している〔飯尾,1994,Ⅱ616頁にヌミディアのについて「最近歿した」との記載があり、ユバ二世が23年卒であることから、このように推定されている。ただし当該部分は後代の追記との説もある〕。没年は紀元21年という説もある。)を示した。(多くは現存している)この著の完成時期は不明であるが、記載内容からティベリウスの治世の時に多くは書かれたものと推測されている。この著作は、地中海沿岸の都市の詳細な叙述で知られ、地域の記載のみならず歴史やその都市の伝説にまで触れて、当時の歴史・地理を知る上で重要な書物である。23年頃にアマセイアにて没している〔飯尾,1994,Ⅱ616頁にヌミディアのについて「最近歿した」との記載があり、ユバ二世が23年卒であることから、このように推定されている。ただし当該部分は後代の追記との説もある〕。没年は紀元21年という説もある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ストラボン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Strabo 」があります。 スポンサード リンク
|