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ストーヤイ・デメ ストーヤイ・デメ (Sztójay Döme、1883年1月5日 - 1946年8月22日)は、ハンガリーの軍人、政治家、外交官。大将。首相。セルビア系で、セルビア名はストヤコヴィッチ(キリル表記Стоякович、ラテン表記:Sztojakovics)。ナチス・ドイツの支持を得てハンガリーの首相に就任し親独政策を行ったが、連合国との講和を模索する摂政ホルティ・ミクローシュによって解任された。 == 軍人・外交官 == オーストリア・ハンガリー軍に入隊後第一次世界大戦に従軍、戦時中に大佐に昇進する。終戦後は一時ユーゴスラビア軍に入隊した後、1919年にホルティ・ミクローシュの率いるハンガリー国民軍に参加し、共産主義者に対する白色テロに従事した。
ホルティ政権下のハンガリー軍では少将に昇進し防諜部門を担当した後、1925年に駐ベルリン駐在武官に任命され、ドイツの軍部と政界で交友を広めた〔Sakmyster, 1975, p. 27.〕。また、1927年には姓名をハンガリー式の「ストーヤイ」に改めた。1933年から1935年まで国防省で勤務した〔後、同年に中将に昇進し駐ドイツ大使に任命され1942年まで務めた〔Juhász, 1979, p. 121.〕。大使在任中はナチス最高指導部のアドルフ・ヒトラー、ヨーゼフ・ゲッベルスと親交を深め、ドイツの政策を支持するようにハンガリー本国に働き掛けた〔〔Braham, 1977, p. 193.〕。 1944年3月、ドイツ軍はマルガレーテI作戦によってハンガリーを占領し、連合国との講和を模索していた首相を解任し、ホルティを軟禁した〔Fenyö, 1969, p. 226-227.〕。ドイツ特使のエトムント・フェーゼンマイヤーは、ドイツに協力的なを首相に任命するようにホルティに提案したが、ホルティは提案を拒否し、代わりにストーヤイを推薦した。ホルティはストーヤイが親独的であることは知っていたが、大蔵官僚のイムレーディよりも、軍人であるストーヤイの方がドイツの圧力に抵抗出来ると考えていた。フェーゼンマイヤーも親独派のストーヤイの首相就任に同意したため、3月22日にストーヤイは首相兼外務大臣に就任した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ストーヤイ・デメ」の詳細全文を読む
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