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ヒューズ H-4 ハーキュリーズ(Hughes H-4 Hercules)は、アメリカのヒューズ・エアクラフトにより製造された飛行艇。初飛行は1947年。1機だけが作られ、翼幅(スパン)が世界最大の航空機である〔ミニクラフト1/200スプルースグース プラッツ 2011年10月27日閲覧〕。名称の「ハーキュリーズ」はヘラクレスの英語読みから。 == 沿革 == === 開発の経緯 === 第二次世界大戦当時、大西洋ではドイツ海軍がUボートにより、イギリスに送られる物資を輸送する船への攻撃を行なっており、対潜水艦レーダーなどの技術はまだ発達していなかったため、1940年7月の1ヶ月だけでも20万トンの輸送船が沈められていた〔鳥養鶴雄 『大空への挑戦 ジェット機編』p50〕。 当時、造船業界でリバティ船の開発に成功していたはこの状況を憂慮していた。いくら輸送船を大量に製造しても、それを上回る量の船舶がUボートの攻撃により失われていたからである。そこでカイザーは、まず輸送船をベースとした簡易な空母「ベビー・キャリアー」を製造し、船団の護衛に使用することを提案し、実際に発注を受けた〔藤田勝啓『ハワード・ヒューズ ヒコーキ物語』p125〕。さらに、空を飛んでしまえばUボートの攻撃を受ける心配はないと考え、船による輸送から空輸に切り替えることを検討した〔。ただし、当時大西洋を横断できる護衛戦闘機は存在せず、洋上で航空機から攻撃を受ければ無防備になることは必定であった。また当時の輸送機では可載量が少なく、滑走路が短かったこと〔この当時は、まだB-29は登場しておらず、B-29に対応した2500メートルの滑走路を有する飛行場は少なかった。〕から、離水距離に制限のない飛行艇を大型輸送機として製造することを考えた〔。 1942年7月19日に、カイザーは総重量200トンの超大型飛行艇を大量に揃え、兵器や資材を空輸することを提案した〔。この提案では、その後さらに総重量500トンの輸送機の構想があること、当面の方策としてはマーティンが同年7月3日に初飛行させたマーティン JRM(マーズ)を5000機製造し、50万人の兵士や70トンの物資を一度に輸送することも含まれていた〔。また、マーズの大量増産には造船所を使用することになっていた〔。 この提案を見た軍部や航空関係者は、否定的な見解を示した。確かに輸送力の確保は必要であるが、戦闘機や爆撃機の増産が最重要な課題で、マーズの大量製造に人員を振り向ける余裕はなかったことや、造船所で航空機の生産を可能とするのには相応の時間を要することもあるが、何よりも200トンや500トンもの大型飛行艇については、夢物語に過ぎないと考えられた〔藤田勝啓『ハワード・ヒューズ ヒコーキ物語』p126〕。 ところが、アメリカの国民はこの提案に好意的な反応を見せた〔。カイザーはリバティ船の製造において、それまで1隻の大型船を製造するのに1年近くかかっていたものをわずか40日程度に短縮し、不可能を可能にする男として知られていた〔藤田勝啓『ハワード・ヒューズ ヒコーキ物語』p124〕。専門家からは疑問も出されているが、カイザーなら実現出来るかもしれないと思われた〔。政府はこの計画を支援するべきだという意見が多くなり、同調する議員も増えることになったのである〔。 このような世論の中では、軍部もその提案をそのまま却下することは出来なくなった〔藤田勝啓『ハワード・ヒューズ ヒコーキ物語』p127〕ため、戦時生産局に検討依頼をすることにした。戦時生産局の航空関係者からも、実現性に乏しい計画であるとした反対の声はあったが、却下した場合の世論の反発を恐れて、暫定的に計画を推進することを認め、図面とデータの提示を要求し、それを検討したうえで正式な採否を決めることになった〔。 しかし、既に社内の技術者により設計が進められているかのように装っていたが、実際にはカイザーの社内には航空技術者はいなかった〔ため、図面の提示を要求されたカイザーは、航空機メーカーへ開発を依頼することになった。しかし、平常時で開発費の提供があるならいざ知らず、戦時下において軍用機の大量生産を行なっている状況ではそのような余裕はどのメーカーにもなく、カイザーの依頼はどのメーカーからも断られた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「H-4 (航空機)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hughes H-4 Hercules 」があります。 スポンサード リンク
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