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スヘルデの戦い : ウィキペディア日本語版
スヘルデの戦い[すへるでのたたかい]

スヘルデの戦い(スヘルデのたたかい、)とは、第二次世界大戦中の1944年10月2日から11月8日までの間に、ベルギー北部及びオランダ南西部で、連合国軍とドイツ第15軍との間で行われた戦闘である。連合国軍はガイ・シモンズ (Guy Simonds) 中将指揮下のカナダ第1軍(First Canadian Army)が基幹となった〔Veterans
Affairs Canada. The Battle of the Scheldt . Retrieved on: August 30, 2008. 訳:2010年9月25日閲覧。〕。
==概要==
1944年6月のノルマンディ上陸以降、9月までに連合国軍はフランス北東部の山岳地帯ではジークフリート線へ、低地部ではベルギーオランダ国境線まで進出していた。ロンメルにより補強されていた大西洋防壁はノルマンディ方面で突破されたあとも依然として健在であり、連合国軍はブリテン島からの補給経路をすべて、ノルマンディやコタンタン半島の小さな穴から供給するかプロヴァンスあるいはイタリア方面から調達しなければならない状態であった。
ノルマンディーから東へジークフリート線まで数百マイルも伸びた兵站線の負担を緩和することは喫緊の課題であり、9月4日に奪還されたベルギー・アントウェルペン(アントワープ)の港湾としての稼動は、補給問題解決の重要な手段であった。
連合国軍は1944年6月6日のD-デイにフランスノルマンディー上陸して以来、イギリス第2軍(Second Army)をネーデルラント(低地諸国)に前進させ、ブリュッセル及びアントウェルペンを占領したが、なおアントウェルペン港の港湾施設は損なわれてはいなかった〔チャールズ・メッセンジャー著 『ノルマンディー上陸作戦』 鈴木主税、浅岡政子訳、河出書房新社、2005年、p.159 ISBN 4-309-61187-7〕。しかし、アントウェルペンはスヘルデ川を遡上した内陸にある港湾であり、その河口域(オランダ領)のドイツ軍は依然として健在であった。河口南部の主要な都市はブレスケンズ、北部は南北ヴェファラントおよびワルヘレンからなる半島〔もとは島であったが長年の干拓により陸続きのひとつの半島となっている〕であり、その先端はスヘルデ河口要塞が構築されていた。イギリス軍の前進はアントウェルペンを占領したところで停止しており、その間ドイツ軍は海への出口となるスヘルデ川河口地帯を支配し続けていた。
アントウェルペン港の封鎖への対応は9月いっぱい何も行われなかった。これは、9月17日に発動されたドイツ軍占領地域へ一挙に進攻するという大胆な計画のマーケット・ガーデン作戦に連合国軍の逼迫していた物資の多くが振り向けられていたためであった。また一方、スヘルデのドイツ軍は防衛線を既に構築し迎撃の準備を整えていた。
10月初め、甚大な損害を出して失敗したマーケット・ガーデン作戦の後に、連合国軍はカナダ第1軍を先頭にアントウェルペン港を支配下に置く行動に着手した。スヘルデ川河口域とワルヘレン島はローマ期から海上交通の拠点であり、中世バイキングの頃には砦が築かれ、英蘭戦争ナポレオン戦争においても争衡地となった知られた要衝の地であり、堅固に構築されたドイツ軍の防御陣地は連合国軍の行動を遅延させるに効果的だった。さらに、河口地帯の湿性で複雑な地形は、スヘルデの戦いを特に厳しく犠牲の多い戦いにさせ、さらにこの戦闘によるカナダ軍の損害は徴兵制度の危機(Conscription Crisis)を悪化させることとなった。
防御していたドイツ軍は陸地に地雷、水中には機雷を敷設し、さらに退却線に火砲と狙撃兵を配備していた。この困難な戦闘は5週間に及んだが、カナダ第1軍は他の国籍の部隊の支援を受け、多くの水陸両用作戦を行い、障害物を乗り越え、犠牲の大きい開平地での戦闘の後にスヘルデの戦いに勝利した。
連合国軍は最終的には11月8日に港湾地域の掃討を終了したが、12,873名の犠牲(死亡、負傷及び行方不明)を出し、その半数6,367名はカナダ軍将兵であった〔〔モントゴメリーはイギリス第7装甲師団が北アフリカ戦線での働きにより「砂漠のネズミ(Desert Rats)」とつけられたように、カナダ第3歩兵師団に「水のネズミ(Water Rats)」というあだ名をつけた。クレラー(Crerar)大将はこの言い方を嫌っていたと伝えられているが、これはノルマンディーとスヘルデの上陸作戦の成功に対する賛辞を意味していた。 (Granatstein, Jack. ''The Generals: Canadian Senior Commanders in the Second World War''.)〕。ブレスケンズやフリッシンゲン・ミテルブルフなど伝統的な街並みはイギリス本土からの絨毯爆撃と海上からの艦砲射撃により灰燼と化したが、戦後その街並みは復興された。
この戦いによりドイツ軍は脅威とならなくなったが、アントウェルペン港までの掃海作業が必要だったために、最初の輸送船が連合国軍の物資供給のため港へ荷揚げできるまでにさらに3週間(1944年11月29日まで)を必要とした。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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