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スヴャトポルク1世[すう゛ゃとぽるく1せい]
スヴャトポルク(、980年頃 - 1019年、スビャトポルクとも)はキエフ大公国の大公。父・ウラジーミル1世の没後、弟のヤロスラフ1世などと対立しながらも、ポーランド王ボレスワフ1世の助力を得て短期間キエフ大公の座についた。 『原初年代記』では、修道女を母に持つという出自に加え、後に列聖された異母弟ボリスとグレブを権力争いの末暗殺したことから「呪われたスヴャトポルク」と呼ばれた〔除村(1946), p.56〕〔田中(1995)p.110〕〔「ロシアの歴史(上)」(2011), p.56〕。 == 出自 == スヴャトポルクの祖父でキエフ・ルーシの公スヴャトスラフは、ビザンツに遠征した際に美しいギリシア人修道女を捕え、長男ヤロポルクに妻として与えた。972年にスヴャトスラフがペチェネグ族に襲撃され死去すると、ヤロポルクは弟オレグとの争いを経てキエフ・ルーシの公となるが、980年に弟ウラジーミルの手先によって殺害された。キエフ・ルーシの大公となったウラジーミルは、ヤロポルクの未亡人であるギリシア女性を自分のものとしたが、このときこの女性はすでに妊娠しており、やがて生まれたのがスヴャトポルクであった。この出自について『原初年代記』では次のように記述している。「罪の根からは悪い果実が生じる。…父は彼を愛さなかった。彼(スヴャトポルク)は二人の父 - ヤロポルクとウラジーミル - から生まれたのである。」〔除村(1946), p.61〕 988年、スヴャトポルクは公としてキエフ北西の町トゥーロフに赴任し、ポーランド公ボレスワフ1世(勇敢王)の娘を妻に迎えた。このときコウォブジェク司教ラインベルンが王女の随伴としてトゥーロフへ来ている。だが後にウラジーミルはスヴャトポルクがボレスワフ王と通じているとして、妻およびラインベルン司教ともどもスヴャトポルクを投獄したという〔国本『年代記』, p.454〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「スヴャトポルク1世」の詳細全文を読む
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