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スーズ・ロトロ(、1943年11月20日 - 2011年2月24日)は、アメリカ・ニューヨーク市出身のアーティスト。出生名スーザン・エリザベス・ロトロ(Susan Elizabeth Rotolo)〔Calliope。〕。1960年代前半頃にボブ・ディランの恋人だった女性で、ディランと腕を組んで歩いている姿がアルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』(1963年)のジャケット写真にもなった。 Suze の表記はスーズともスージーとも読み〔ロトロ(2010年)、pp. 123-124。〕、 Suzie スージーとも表記していた〔ロトロ(2010年)、pp. 278-279。〕。 近年はブック・アートに取り組んで作品を発表していた。またディランのドキュメンタリー映画『ノー・ディレクション・ホーム』(2005年)にインタビュー出演し、2008年、当時を回想した著書を出版した(邦訳は2010年)。 ==来歴== 1943年11月20日〔Calliope。〕、ニューヨーク市ブルックリン区のジューイッシュ・ホスピタルに生まれ、クイーンズ区のサニーサイドで育つ〔ロトロ(2010年)、p. 40。〕。2才離れた姉にカーラ・マリア・ロトロがいる〔ロトロ(2010年)、p. 122。〕。父親ジオアーチノ・ピエトロ・ロトロ(ジャック)〔ロトロ(2010年)、pp. 41-42。〕と母親マリア・テレサ・ペザッティ・ロトロ(メアリ)〔ロトロ(2010年)、pp. 84-85。〕はイタリア系の共産党員であり〔ロトロ(2010年)、pp. 47-48。〕、マッカーシズムの中で〔ロトロ(2010年)、p. 58。〕経済的にも精神的にも辛い幼少期を過ごす〔ロトロ(2010年)、pp. 48-49。〕。両親とは異なり叔父で似顔絵画家のピエトロ・ペザッティ(ピーター)はムッソリーニ支持のファシストであった〔ロトロ(2010年)、p. 87。〕。1958年2月、14歳の時に父親が他界する〔ロトロ(2010年)、pp. 50-55。〕〔スーンズ(2002年)、p. 102。〕。 彼女自身は両親の影響を受け、早くから社会活動を行っていた。中学生のときには公民権運動として人種別カウンターを設けていたスーパーマーケットでピケを張ったし〔スーンズ(2002年)、p. 102。〕、公民権運動団体の人種平等会議CORE(Congress of Racial Equality)の職員を務めたり〔スカデュト(1973年)、p. 180。〕〔ロトロ(2010年)、p. 76。〕〔ロトロ(2010年)、pp. 104-106。〕、20歳のときには政府によって渡航が禁止されていたキューバへの学生訪問団に加わってチェ・ゲバラと面談するなどしているが〔ロトロ(2010年)、pp. 349-366。〕、ソ連の体制やスターリニズムには懐疑的であり続けた。 中高生の頃からグリニッジ・ヴィレッジ周辺で展開していたフォーク・ソング復興運動に親しみ〔ロトロ(2010年)、pp. 61-65。〕、1961年7月、17歳のときにまだ無名で20歳だったボブ・ディランと知り合い恋人同士となる〔スカデュト(1973年)、pp. 146-148。〕〔ロトロ(2010年)、p. 11。〕〔ロトロ(2010年)、pp. 107-110。〕。姉のカーラも一時期はアメリカ議会図書館の研究員だったアラン・ローマックスの助手を務めるなどしており〔スカデュト(1973年)、p. 144。〕〔スーンズ(2002年)、p. 102。〕〔ロトロ(2010年)、pp. 152-153。〕、フォーク・ソング復興運動に関わっていた。 1961年12月から、西四番ストリートにディランが借りていたアパートで一緒に暮らし始めるが〔スカデュト(1973年)、p. 178。〕〔ロトロ(2010年)、p. 120。〕〔スーンズ(2002年)、p. 116。「1962年の初め」と記述。〕、1962年6月、ディランを置いてイタリアのペルージャに半年ほど留学〔スカデュト(1973年)、pp. 197-200。〕〔ロトロ(2010年)、pp. 195-224。〕。帰国後の1963年1月より再びディランと一緒になり〔スカデュト(1973年)、pp. 211-215。〕〔ロトロ(2010年)、pp. 225-226。〕、5月、アルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』がリリースされる〔スーンズ(2002年)、p. 139。〕。ほどなくしてディランは急速に名声を高めていくが、ディランと一緒にいることのプレッシャーやゴシップなどに耐え切れず、8月には別居〔スカデュト(1973年)、p. 240。〕〔ロトロ(2010年)、p. 295。〕。やがて彼の子供の妊娠が判明するが中絶をする〔ロトロ(2010年)、pp. 319-320。〕。1964年3月には、二人の関係は実質的に終わっていた〔スカデュト(1973年)、pp. 272-273。〕。その後ディランは関係を修復しようとし〔スカデュト(1973年)、p. 273。〕、『追憶のハイウェイ61』(1965年)のレコーディング現場に同席するなど関係は断続的に続いたが〔ロトロ(2010年)、pp. 321-324。〕、1966年のイタリア再留学を機会に完全に別れることになった。 1972年に国連の映像編集者エンゾ・バートッチオーリ(Enzo Bartoccioli)と結婚しており、息子のルカ(Luca)はギタリストである〔Calliope。〕。近年はブック・アート(artist's book、装丁芸術)に取り組み、スーザン・ロトロの名義で作品を発表〔Rotolo(2010年)。〕。一時期ニューヨークのパーソンズ美術大学で講師も務めていた〔Calliope。〕〔Rotolo(2010年)。〕。 長らくディランについてまとまった発言をしてこなかったが、2004年以降はメディアに登場して1960年代前半のグリニッジ・ヴィレッジについて語るようになり、ディランのドキュメンタリー映画『ノー・ディレクション・ホーム』(2005年)にインタビュー出演。2008年、当時のヴィレッジの風俗と、ディランらを含むフォーク・ミュージシャンたちの群像を回想した著書を出版した。日本でも『グリニッチヴィレッジの青春』の題名で2010年に邦訳が出版された。〔ロトロ(2010年)。〕 2011年2月24日、肺癌のためニューヨーク・マンハッタンの自宅で亡くなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「スーズ・ロトロ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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