|
スーパースター・ビリー・グラハム("Superstar" Billy Graham、本名:Eldridge Wayne Coleman、1943年9月10日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。アリゾナ州パラダイスバレー出身。 1970年代を代表する文字通りのスーパースター。1980年代以降続々と登場するハルク・ホーガン、ジェシー・ベンチュラ、ランディ・サベージなどのボディビルダー系、マッチョマン系と称されるタイプのレスラーたちのモデルとなった人物であり、彼の存在がプロレス史を変えたとすら言われる。来日した際に付けられたキャッチコピーは「鉄腕」。 怪力と反則を駆使したスタイルでテクニックには乏しかったが、観客とのやり取りやマイクパフォーマンスには抜群の才能を発揮し、ヒールでありながら脅威的な人気を誇った。ハルク・ホーガンも元々は彼の熱狂的なファンの一人であったことは有名。饒舌で知られるリック・フレアーも、元々はグラハムの話術をコピーしたと告白している〔リック・フレアー、キース・エリオット・グリーンバーグ共著『リック・フレアー自伝 トゥー・ビー・ザ・マン』P58-59(2004年、エンターブレイン、ISBN 4757721536)〕。一方、プロモーション・インタビューの慣習がなく言葉の通じない日本のマット界では現役当時の評価は低く、「木偶の坊」「期待外れ」などと呼ばれた〔プロレスアルバム16『THE HEEL』P48-49(1981年、恒文社)〕。 == 来歴 == 10代の頃からアメリカンフットボールや陸上の投てき競技で活躍し、ボディビルのコンテストでは優勝経験も持つ。1968年にAFLのオークランド・レイダーズとヒューストン・オイラーズのトライアウトに参加したが、ロースターには残れず、CFLのカルガリー・スタンピーダーズからも開幕前に解雇された。以後、同じくCFLのモントリオール・アルエッツと契約し、5試合にディフェンシブ・エンドとして出場した。その後、ボディビルで鍛えた肉体を活かすべくプロレス転向を決意、CFLの先輩でもあるスチュ・ハートのトレーニングを受け、1969年に本名のウェイン・コールマン名義でデビュー。 1970年夏、NWAのロサンゼルス地区にてドクター・ジェリー・グラハムと出会い、長男ジェリー、次男エディ・グラハム、三男ルーク・グラハムからなるグラハム兄弟の「末弟」としてスーパースター・ビリー・グラハムのリングネームを名乗った〔。スーパースターは当時大ヒットしていたミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』から、ビリーはキリスト教伝道師のビリー・グラハムからそれぞれ付けられたとされる〔。 その後、サンフランシスコ地区に北上し、1971年1月7日にパット・パターソンと組み、レイ・スティーブンス&ピーター・メイビアから同地区認定のNWA世界タッグ王座を奪取。1972年からはAWAに参戦してワフー・マクダニエルとの抗争で名を売り、1974年8月16日にはビル・ロビンソンを破りIWA世界ヘビー級王座を獲得。同年9月、王者として国際プロレスの『スーパー・ワイド・シリーズ』に初来日し、10月1日に大分の大分県立荷揚町体育館、10月5日に名古屋の愛知県体育館にてマイティ井上の挑戦を退け防衛に成功〔『忘れじの国際プロレス』P101-102(2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583620802)〕。10月7日の越谷大会で井上に敗れタイトルは失ったものの、同じボディビル出身のアニマル浜口とのベンチプレス対決など数々の話題を残した〔『THE WRESTLER BEST 1000』P55(1996年、日本スポーツ出版社)〕。シリーズ中はAWAでも共闘していたバロン・フォン・ラシクと組み、9月23日に日大講堂にてラッシャー木村&グレート草津のIWA世界タッグ王座にも挑戦している〔〔。また、9月15日の後楽園ホール大会では、入場曲として前述のミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』のテーマ曲が流された。これは日本のプロレス界で使用された入場テーマ曲の草分けである〔『週刊プロレス』No.1760、平成26年10月15日号(10月1日発行)P101(2014年、ベースボール・マガジン社)〕。 1975年はテキサス東部のダラス地区にて、4月4日にブラックジャック・ランザ、8月5日にマッドドッグ・バションからテキサス・ブラスナックル王座を奪取。その後、ノースカロライナ地区を経て、10月よりグラン・ウィザードをマネージャーに迎えてWWWFに初参戦。12月15日にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンに初登場し、ドミニク・デヌーチを9秒で一蹴。翌1976年1月12日の定期戦では、ブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦してカウントアウト勝ちを収めている(タイトルは移動せず)〔。同年8月には新日本プロレスに来日。9月3日にイワン・コロフとのコンビで坂口征二&ストロング小林の北米タッグ王座に挑戦し、9月10日には品川にてアントニオ猪木とシングルマッチで対戦した。 帰国後はNWA圏のフロリダ地区(エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)に参戦。11月22日にダスティ・ローデスからNWAフロリダ・ヘビー級王座を、翌1977年4月2日にはオックス・ベーカーと組んでジャック・ブリスコ&ジェリー・ブリスコからNWAフロリダ・タッグ王座を奪取した。その勢いでWWWFに戻り、1977年4月30日、メリーランド州ボルティモアにてブルーノ・サンマルチノを破りWWWF世界ヘビー級王座を獲得、第7代王者となる。 王座戴冠後は「悪党チャンピオン」として、ミル・マスカラス、ダスティ・ローデス、ピーター・メイビア、ゴリラ・モンスーン、チーフ・ジェイ・ストロンボー、トニー・ガレア、ロッキー・ジョンソン、イワン・プトスキー、ヘイスタック・カルホーンなどのベビーフェイス勢を相手に防衛戦を行い、1978年2月20日にマディソン・スクエア・ガーデンでボブ・バックランドに敗れるまで10ヵ月間王座を保持〔。当時のWWWFでヒールの王者がこれだけの長期政権を築いたのは極めて異例のことであり、MSGの定期戦を毎月ソールドアウトにするなど、彼の悪役人気の高さが窺い知れる〔。なお、王座陥落直前の1978年2月には新日本プロレスに再来日し、2月8日に日本武道館にて坂口征二とタイトルマッチを行い防衛に成功している。また、同年1月25日にはフロリダ州マイアミのマイアミ・オレンジボウルにて、当時のNWA世界ヘビー級王者ハーリー・レイスとの史上初のダブルタイトルマッチ(スーパーボウル・オブ・レスリング)も行われた。 王座陥落後の1979年4月、国際プロレスに再来日。4月21日に高岡にて、ラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座に金網デスマッチで挑戦した〔。同年の秋からはテネシー州メンフィスのCWAに参戦、ジェリー・ローラーやビル・ダンディーとCWA世界ヘビー級王座を争った(テネシーではザ・ハルクこと若手時代のハルク・ホーガンとも対戦している)。1980年1月にはダラス地区でマーク・ルーインとテキサス・ブラスナックル王座を争ったが〔、長年使用していたステロイド剤の副作用の影響により、以降しばらくマット界から姿を消すこととなる。 一時は癌による死亡説も囁かれたが〔〔、1982年下期よりマーシャルアーツ・スタイルに変身してWWFにカムバック。スキンヘッドに口髭を蓄えビジュアルイメージも一新させて再起を図り、ボブ・バックランドとの抗争を再開したものの、筋肉はそげ落ち往時のスーパースターの面影はなかった(同年1月、WWF復帰前に新日本プロレスへの通算6回目の来日が急遽実現し、その変わり果てた姿を見せた〔『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P102(2002年、日本スポーツ出版社)〕)。しかしながら、復帰後もWWFではトップヒールとして迎えられ、バックランドのWWFヘビー級王座には、10月4日、11月22日、12月28日と同年のMSG定期戦にて3ヵ月連続で挑戦。ペドロ・モラレスが保持していたインターコンチネンタル王座にも東部各地で挑戦した。 以降はNWAの南部テリトリーを転戦、フロリダではケビン・サリバン率いるヒール軍団「アーミー・オブ・ダークネス」に加入してダスティ・ローデスやブラックジャック・マリガンと抗争。1984年5月には当時のNWA世界ヘビー級王者ケリー・フォン・エリックに連続挑戦した。同年6月10日にはビリー・ジャック・ヘインズからNWAフロリダ・ヘビー級王座を奪取、久々のタイトル戴冠を果たしている〔。ジム・クロケット・ジュニアが運営していたミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリングでは、ポール・ジョーンズをマネージャーにアブドーラ・ザ・ブッチャーやコンガ・ザ・バーバリアンと共闘、1984年11月22日開催のスターケードではAWA時代の旧敵ワフー・マクダニエルと対戦し、以降もマニー・フェルナンデスやジミー・バリアントと抗争を展開した。 その後、再び体調を崩してセミリタイア状態となり、1986年にベビーフェイスのレスラー兼カラー・コメンテーターとしてWWFと再契約。ブッチ・リードらとの抗争を経て、翌1987年に正式に引退した。引退後はフェイスターンしたドン・ムラコのマネージャーを務めていたが、1988年に解雇される。以降はWWFとの関係が険悪になり、テレビ番組でWWF内部の薬物使用問題を暴露〔。1990年代に行われた「ステロイド裁判」では検察側の証人としてビンス・マクマホンに不利な証言をするなど、以降10年間以上に渡ってWWFとは絶縁状態となった〔〔。 しかし2003年にビンス・マクマホンと和解し、翌年にはWWE殿堂に迎えられた(インダクターはトリプルH)。その後もステロイド剤の危険性を訴える活動を行う一方、特別ゲストとしてWWEのテレビ放送に時折登場している〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「スーパースター・ビリー・グラハム」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|