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ズリーニィ(ハンガリー語:)は、第二次世界大戦中にハンガリーで開発された自走砲である。105mm砲搭載型と75mm砲搭載型の2タイプがあるが、量産されたのは105mm砲搭載の突撃榴弾砲のみで、1943年秋から1944年にかけて約70両が生産された。 ズリーニィは第二次世界大戦中にハンガリーで生産された装甲戦闘車両の中でも、最も成功したものであると評価されている。'')は、第二次世界大戦中にハンガリーで開発された自走砲である。105mm砲搭載型と75mm砲搭載型の2タイプがあるが、量産されたのは105mm砲搭載の突撃榴弾砲のみで、1943年秋から1944年にかけて約70両が生産された。 ズリーニィは第二次世界大戦中にハンガリーで生産された装甲戦闘車両の中でも、最も成功したものであると評価されている。 == 開発と生産 == ドイツ国防軍における突撃砲の成功に触発され、1942年夏、ハンガリーでも同種の車両を装備すべきとの提案が、ハンガリー国防省の自動車・戦闘車両課より軍に出された。しかし、すでに自国の軍への供給で手一杯だったドイツからはまとまった数を調達できそうになく、ハンガリーでは自国の資材を使って新型突撃砲を開発することになった。 ヴァイス・マンフレート社での検討の結果、車体は当時主力戦車として量産されていたトゥラーン中戦車のコンポーネントを極力流用し、主砲にはハンガリー製の105mm榴弾砲40Mが用いられることになった。この砲は牽引式の野戦榴弾砲として開発されたが、駐退復座機構に不具合があり、少なからぬ数の砲身がデッドストックとなっていたものだった。 実物大木型審査の後、1942年10月、ヴァイス・マンフレート社に試作車両の製作が発注され、同社ではトゥラーン中戦車の軟鉄製試作車(登録番号H-801)をベースに、12月までにこれを完成させた。 製作に伴い、トゥラーンの車体は下部で400mm(図面によっては450mmとしているものもある)広げられ、これに、イタリアのセモベンテに似た固定式戦闘室が設けられた。操縦席の関係で、主砲はやや左側に、半球形の内側防盾付きで装備された。 試作車の試験の終了を待たず、1943年1月、ヴァイス・マンフレート社に対して第1生産ロット40両の量産が発注された。5月には40/43M ズリーニィII として制式化された。ズリーニィの名は、16世紀にトルコとの戦いに名を馳せた民族的英雄にちなむ。 生産にあたっては、装甲板や砲は他社工場で製作されてヴァイス・マンフレート社に引き渡されるという協同体制が組まれたが、その足並みが揃わず、最初の3両が完成したのは1943年9月になってからだった。しかもこの3両は装甲鋼板が間に合わず軟鉄製で、訓練用のみに使われた。装甲鋼板製の残り37両は、1944年1月までに引き渡された。 突撃榴弾砲採用の一方で、長砲身75mm戦車砲を搭載する対戦車型が計画された。プロトタイプ(H-801)が再び改装されて、長砲身型ズリーニィの試作車は1944年2月に完成、44M ズリーニィI と名付けられた。 この頃までに、ズリーニィを装備する部隊として、突撃砲大隊の編成が進められていた。突撃砲大隊の装備車両としては、むしろ75mm砲型のズリーニィI が主となる計画が立てられ、1944年9月までにズリーニィII の第2ロット50両、それ以降はズリーニィI に切り替えて110両量産するというスケジュールでの発注が行われた。 しかし実際には、材料不足から国産75mm戦車砲の生産計画は放棄され、結局、ズリーニィI は試作車1両のみの完成に終わった。 第2ロットのズリーニィII の生産はヴァイス・マンフレート社で進められていたが、1944年7月27日、工場がアメリカ軍の爆撃により破壊され、生産は止まってしまった。その後、回収された装甲車体やエンジンを使い、ガンズ社で組立てが再開されたが、こちらもガンズ社のあるブダペストの包囲・陥落に伴い、11月には生産が不可能となった。 生産数は、ヴァイス・マンフレート社において合計60両、ガンズ社で1944年9月までに6両とされている。ガンズ社でのそれ以降の生産については不明である。 現在、ロシアのクビンカ戦車博物館に展示されているズリーニィIIが、唯一の現存車両と考えられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ズリーニィ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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