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ズルフィカル・アリ・ブット : ウィキペディア日本語版
ズルフィカール・アリー・ブットー

ズルフィカール・アリー・ブットーウルドゥー語:ذوالفقارعلی بھٹو, シンド語:ذوالفقارعلي ڀُٽو, 英語:Zulfikar Ali Bhutto, 1928年1月5日 - 1979年4月4日)は、パキスタンの政治家で、1971年から1973年まで大統領、1973年から1977年まで首相を務めた。パキスタン人民党(PPP)の創立者。娘にはパキスタン首相を務め2007年に暗殺されたベーナズィール・ブットーがいる。彼は社会主義的政策や核開発を進めたが、1977年にムハンマド・ジア=ウル=ハク将軍によるクーデターで失脚した。政敵暗殺の容疑をかけられ、1979年死刑に処されたが、これはジア=ウル=ハクの主導による政治的裁判といわれている。

== 経歴 ==
ラールカーナー(現在シンド州)近郊で地主で政治家の三男として生まれた。ボンベイ(現ムンバイ)で教育を受け、パキスタン建国運動にも関わった。南カリフォルニア大学およびカリフォルニア大学バークレー校で政治学を学んだ。1951年にカラチ在住のイラン人富豪の娘ヌスラト・イスパハーニーと結婚し、1953年の長女ベーナズィールを初めとして二男二女を儲けた。1957年、パキスタンの国連代表団に最年少で参加。1958年には大統領により最年少閣僚としてエネルギー相に任命され、その後ソ連との援助交渉などを通じ頭角を現した。
1963年に外相となり、それまでの西側寄り政策を転換し、アメリカ合衆国と一線を画して中華人民共和国サウジアラビアとの軍事・経済協力関係を結ぶとともに領土問題を決着させた。また他のイスラム諸国との関係を緊密にし、非同盟路線を進めた。1965年、カシミール領有権をめぐりインドとの軍事衝突が起きた(第二次印パ戦争)。ブットーはインドを非難したが、両国はアメリカ、イギリス、ソ連などの圧力により、国連の仲介する停戦に同意した。ブットーはアイユーブ・ハーンとともに和平交渉に赴き、両国の捕虜交換と撤兵に合意したが、国内世論はこれに反発し、ブットーもアイユーブ・ハーンに対して批判的になり、1967年には辞任して公然と政権を批判し、ラホールでパキスタン人民党を結成した。
アイユーブ・ハーンの辞任後、新大統領の元で1970年12月に選挙が行われ、PPPは西パキスタンの多くの議席を占めたが、東パキスタンでは独立派でムジブル・ラフマンが率いるアワミ連盟が多数を制した。ムジブル・ラフマンが軍に逮捕された後、混乱の中で1971年3月25日、が東パキスタンでバングラデシュの独立を宣言し、パキスタン軍による弾圧が始まった(バングラデシュ独立戦争)。ブットーは軍を支持しながらもヤヒヤー・カーンとは距離を置いた。
インドの東パキスタン介入(第三次印パ戦争)によりパキスタン軍は12月16日降伏した。ヤヒヤー・ハーンは非難を受けて12月20日辞任し、ブットーが次期大統領ならびに戒厳司令官となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ズルフィカール・アリー・ブットー」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Zulfikar Ali Bhutto 」があります。



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