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『斎藤 清六』(さいとう せいろく、本名:斎藤 精陸(読みは同じ)、1948年6月15日 - )は、東京都北区出身の日本の俳優、お笑いタレントである。欽ちゃんファミリーの一人に数えられる。 日本大学法学部卒業。浅井企画所属であったが後に独立し、個人事務所「清六企画」を立ち上げた。 == 来歴・人物 == 芸能界に入る以前は、東京都北区在住の両親の経営する米屋で育った。地元区立小中学校を経て日大豊山高校入学。演芸が好きで中学高校時代に浅草等に通う。付属校対象による日大統一試験により内部推薦で日大法学部へ入学するも、学園紛争のあおりでレポートのみで卒業した〔本人がメディア・著作で語ったところによると学園紛争がなかったら卒業できなかった。〕。 1971年、萩本欽一に弟子入りを求めて押しかける。しかし3日間いた後、萩本の一言から浅草修行へ。10年ほどしてから萩本の下に舞い戻り、以降は欽ちゃんファミリー入り。清六の人柄に絆された萩本はバックアップをしていく〔萩本は、弟子が一人もいないと公言していたが、2000年代辺りに入り唯一の弟子として認めた。〕。 以来、飾らないボケキャラで、お茶の間を賑せている。特に『欽ちゃんのどこまでやるの!』「村の時間」のコーナーの仕切り役「たよりないアナウンサー〔番組では「あぜ道カットでお馴染みの甘栗坊や」のちに「稲穂カットでお馴染みの団栗坊や」と名乗っている。〕」、『クイズ・ドレミファドン!』のリポーター「セイロクマン」が当たり役となり、当時の人気お笑いタレントの一員となった〔それ以前にも『スター誕生!』のコーナー司会で、ボケキャラ振りを見せていた。〕。しかし、テレビ番組等のレギュラー出演は1996年以降ほとんどなく、現在では主に単発番組にしか顔を見せていない。 熱烈なプロレスファンであり、現在でも後楽園ホールなどにおける清六の目撃情報が頻繁に出る。そのため各種プロレス・格闘技メディアはインタビュー依頼を何度も出しているが、清六は頑なに断り続けている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「斎藤清六」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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