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聖セバスティアヌス (Sebastianus, 伝承による没月日287年1月20日)は、キリスト教(正教会・非カルケドン派・カトリック教会)の聖人・殉教者(致命者)。聖セバスチャンとも表記される。3世紀のディオクレティアヌス帝のキリスト教迫害で殺害されたといわれてきた。彼は美術や文学で、柱に身を縛り付けられ、矢を射られた姿で描かれることが多い。正教会では聖致命者セバスティアンと呼称され、記憶日は12月18日(ユリウス暦を使用する正教会では12月31日に相当)〔『正教改暦 2008年』日本ハリストス正教会教団発行〕。カトリック教会での祝日は1月20日。 ==生涯== セバスティアヌスの殉教の詳細は、初めアンブロジウスによって仕上げられた。ミラノ司教アンブロジウスは、ミラノからセバスティアヌスが来たことを述べ、彼は既に4世紀に列聖されていたことがわかる。 5世紀のアクタ・サンクトルム(聖人についての事典)は〔''Acta S. Sebastiani Martyris'', in Migne|J.-P. Migne, ''Patrologiae Cursus Completus Accurante'' (Paris 1845), XVII, 1021-1058; the details given here follow the abbreviated account in Jacob de Voragine, ''Legenda Aurea''.〕、17世紀の聖人伝作者ヨハンネス・ボランドゥスによってアンブロジウスの作品だといまだいわれており、ヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』の内容をここに引用すると、セバスティアヌスはガリア・ナルボネンシス(現在のフランス・ラングドックとプロヴァンスにまたがるローマ植民地)の生まれで、ミラノで教育を受け、その後ディオクレティアヌスとマクシミアヌス配下の親衛隊の長に任命された。皇帝は彼がキリスト教徒であることに気がついていなかった。 セバスティアヌスは、囚われの身であった2人のキリスト教徒マルクスとマルケリアヌスをその信仰で励ましたことからすぐに知られてしまった。マルクスとマルケリアヌスは、キリストを否定して、ローマの神に捧げ物をするよう、家族から嘆願され嘆き悲しんでいた。セバスティアヌスのオーラは口のきけない女性を癒し、奇跡はすぐに78人の人々をキリスト教に改宗させた。 言い伝えに寄れば、マルクスとマルケリアヌスは兄弟で助祭であった。2人はどちらも優れた一族から妻を娶り、ローマに妻子と暮らしていた。兄弟はローマの神へ犠牲を捧げるのを拒否して逮捕されたのである。兄弟は父トランキリヌス、母マルティアが獄中を訪問した際、2人からキリスト教棄教を嘆願されていた。 セバスティアヌスは聖ティブリティウスとスザンナ同様に、トランキリヌスとマルティアをキリスト教に改宗させた。士官ニコストラトゥスの妻ゾエも改宗した。言い伝えによると、ゾエは6年も言葉を発しなかったという。しかし、彼女はキリスト教に改宗したいという望みをセバスティアヌスに知られたのである。改宗するとすぐに、ゾエの口に言葉が戻った。ニコストラトゥスは囚人の残りを連れ出した。彼ら16人はセバスティアヌスによって改宗していたのである〔Ebenezer Cobham Brewer, ''A Dictionary of Miracles: Imitative, Realistic, and Dogmatic'' (Chatto and Windus, 1901), 11.〕。 士官クロマティウスとティブルティウスも改宗した。クロマティウスは囚人を解放してその職を辞し、カンパーニアの故郷に隠退した。 マルクスとマルケリアヌスは後にカストゥルスによってかくまわれたが、ニコストラトゥス、ゾエ、ティブルティウス同様に殉教した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「セバスティアヌス」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Saint Sebastian 」があります。 スポンサード リンク
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