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セベ・バレステロス(''Seve Ballesteros''、本名: Severiano Ballesteros Sota (セベリアーノ・バジェステーロス・ソタ) 、1957年4月9日 - 2011年5月7日)はスペインのカンタブリア州ペドレーニャ出身のプロゴルファー。「セベ」の愛称で親しまれ、欧州ツアー50勝(歴代1位)、米PGAツアー9勝、日本でも日本オープン2年連続優勝など全世界で91勝を挙げるなどし、ゴルフ史上に残る名プレーヤーの一人に数えられる。 == 来歴 == 酪農家の家庭〔に男ばかり4人兄弟の末っ子として生まれる〔。キャディのアルバイトをしていた兄の影響でゴルフに触れ、7歳のときにもらった3番アイアンのヘッドに枯れ枝を取り付けてクラブに見立て、小石を打つなどして遊ぶことによりゴルファーとしての基礎を自然と身に付けた。8歳になると本物の3番アイアンを手に入れ自分の体の一部のように終始離さず、たった一個のボールが擦り切れて中のゴムが露出するまで打ち続けた彼は、12歳の頃にはスクラッチプレーヤーの腕前に達し、1974年わずか16歳でプロとなる早熟ぶりだった〔〔。180cm・78kgのバランスの取れた体格はゴルフをするために生まれてきたと評され〔「生まれつき左腕に比べ右腕が長いため、右肩を下げずにグリップできる」と語ったことがあり、これはゴルフをするのに有利とされる。〕プロ転向してから2年後の1976年に欧州ツアー初優勝〔、この年19歳の若さで欧州ツアーの賞金王に輝いた〔。1976年のマスターズ直前にはアメリカゴルフダイジェスト誌が「史上初めての10代優勝の可能性」と特集を組むほどの逸材だった。日本ツアーでも1977年に日本オープンでツアー史上最年少優勝を飾った。マスターズの初優勝は1980年だったが〔、当時の最年少優勝記録を更新する勝利だった(後にこの記録はタイガー・ウッズに破られた)〔。その前年22歳で全英オープンでメジャー大会初優勝〔。メジャー大会では通算5勝している。 また1997年のライダーカップではキャプテンとしてホセ・マリア・オラサバル、らと共にヨーロッパチームを勝利に導いた。1999年に世界ゴルフ殿堂入り〔。 全盛期の1980年代には世界ランキング1位を通算「61週」保持〔〔世界ランキングを算出するようになったのは1983年以降の成績をもとに1986年から。〕するなどの強さを誇り、マスターズ初優勝時にはコメントを求められたジャック・ニクラスが「彼の将来にはたくさんのグリーンジャケットが待っている」と語るなど期待されていた。 しかし1991年に6回目の欧州ツアー賞金王を獲得以降次第にスランプへ陥る。その後メタルウッドやチタンウッドが登場した頃からスイング改造の失敗でさらに調子を崩し世界ランキングは急降下、腰痛や膝痛にも悩まされて全盛期の輝きを取り戻すことなく2007年7月16日に競技ゴルフから退く事を表明した(最後の欧州ツアー優勝は1995年〔)。 2008年10月6日にスペインのマドリード空港で倒れ、意識不明のまま病院に搬送された。精密検査の結果、脳腫瘍と判明〔。計4度の腫瘍摘出手術と化学療法により一旦はゴルフができるまでに回復したが、2011年5月7日に長い闘病生活の末にペドレニャの自宅で亡くなった〔。54歳没〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「セベ・バレステロス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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