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スィパーヒー
スィパーヒー(オスマン語 سپاهی sipahi)とは元々ペルシア語の「兵士、軍人」を意味する سپاهی sipāhī からの借用語であるが、狭義にはオスマン帝国で組織され、中世ヨーロッパにおける封建制度の中での騎士に相当する集団を指す。召集されるにあたり給料として一定の封土での徴税権を帝国から与えられるティマール制がとられていた。現代標準日本語では、一部の外来語を除き(話者によっても異なる)、基本的にはiの前のsはshと発音されるため、仮名表記では「シパーヒー」とも書かれる。 == スィパーヒー以前の騎兵集団 == アナトリア周辺は正統カリフ・ウマイヤ朝時代以降、イスラーム支配地域と東ローマ帝国との境域地域にあたり、非ムスリムに対する侵略的な宗教的聖戦(ジハード)に伴う、あるいはそれを名目とした、非ムスリム人民への財産狩りや奴隷狩りなどの掠奪遠征(ガズウ غزو ghazw / ガズワ غزوة ghazwa)に従事とする者、「聖戦に参加する者」という意味のガーズィー غازي ghāzīという戦士団が在住し、現在のトルコ南東部およびシリア北部からイラク北部の地域を前線として、アッバース朝などの遠征以外にも、ガーズィー集団による東ローマ帝国領内への掠奪遠征や東ローマ軍との軍事衝突がたびたび繰り返された。オスマン帝国の前身であるとされるセルジューク朝では、1071年にマラズギルトの戦いにおいてアルプ・アルスラーン率いるセルジューク朝軍が勝利を収め、アナトリア中西部まで一気に領域を広げた。この時アルプ・アルスラーンは麾下のテュルクメン諸侯をアナトリア各地に分封・入植させ、これらの取り纏め役としてルーム・セルジューク朝の始祖スライマーン・ブン・クタルムシュを入府させた。こうしてアナトリアのガーズィー集団に、セルジューク系のテュルクメン勢力が最前線で新たに加わる事となった。東ローマ帝国やルーム・セルジューク朝、ダーニシュマンド朝などのセルジューク諸侯、のちのベイリクの基盤となるその他諸々のガーズィー集団など大小の政治勢力が、互いにアナトリアの支配を巡り合従連衡を繰り返した。オスマン朝の君主はオスマン1世やオルハンを含め、「オスマン・ガーズィー」、「ガーズィーたちのスルターン、オルハン」と初期から「ガーズィー」の称号を名乗り続けたことからも明らかなように、オスマン朝自体がこれらのガーズィー集団のひとつから勃興したが、オスマン朝初期から活躍したスィパーヒーはこれらのガーズィー集団を継承する形で産まれたとされる。 オスマン朝にはこの他にも戦闘での略奪品を報酬として受け取る権利を与えられたアキンジやデリなどといった騎兵部隊も存在したが、略奪が主な目的であるために士気が大変低く、敵との戦闘になってもすぐに逃げ出したために決定的な戦力とは言い難かったが、バルカン半島を征服していく上では彼らは大きく貢献した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「スィパーヒー」の詳細全文を読む
英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Sipahi 」があります。
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