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セルゲイ・ヴァディモヴィチ・ステパーシン(ステパシン、、ラテン文字表記の例:、1952年3月2日 - )は、ロシア連邦の政治家。エリツィン時代の首相。法学博士。ロシア法律家協会共同議長。 == 経歴・人物 == 1952年、中華人民共和国旅順のソ連海軍軍人の家庭に生まれる。1973年、レニングラード(現:サンクトペテルブルク)内務省高等政治学校を卒業。国内軍特殊部隊勤務を経て、1981年、V.I.レーニン名称軍事政治アカデミーの教官となる。論文『大祖国戦争中のレニングラード火災における党の指導性』で歴史学博士候補の学位を取得した〔 〕〔 〕。 1990年4月、ロシア人民代議員に選出され、国防・治安委員長に就任する。1991年から1992年まで連邦保安局(AFB)サンクトペテルブルク市・レニングラード州局長、1992年から1993年まで保安省サンクトペテルブルク市・レニングラード州局長を務める。後に保安第一次官、ロシア連邦防諜庁(FSK)第一次官に就任。1994年2月にFSK長官、後にロシア連邦保安庁(FSB)長官に任命される。 1994年12月の第一次チェチェン紛争ではロシア軍の侵攻を積極的に推進した。1995年6月、チェチェン武装勢力による人質事件の責任を取って事件後、FSB長官を辞任した。しかし、その後も1997年から法相、1998年から内相を務め、エリツィン政権では一貫して治安維持を担当した。 1999年5月、プリマコフ首相解任に伴い、治安維持畑での経歴を買われて首相に任命される。しかし、当初期待されたほどにエリツィン及び「ファミリー」と呼ばれたエリツィン一家、政商、側近を守ることが出来ないと判断されたため、8月に解任され、後任にはFSB長官のウラジーミル・プーチンが選ばれた。以後は、エリツィンに対して批判色を徐々に強め、1999年12月の下院選挙では、ヤブロコに加わりサンクトペテルブルク小選挙区から立候補し当選した。2000年4月に会計検査院議長に任命され、2013年9月20日まで務めた。また2008年から露日経済協議会代表を務めている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「セルゲイ・ステパーシン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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