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セルヒオ・オスメニャ : ウィキペディア日本語版
セルヒオ・オスメニャ

セルヒオ・オスメニャ(Sergio Osmeña, 1878年9月9日 - 1961年10月19日)はフィリピンの第3代大統領。米領フィリピン自治領時代では2番目の大統領。

==人物==
1878年セブで生まれ、サン・フアン・デ・レトラン大学に学び、後にサント・トーマス大学法学を専攻する。米西戦争の影響で学業は中断を余儀なくされたが、1903年最高裁司法試験の受験を認め、二番の成績で合格した。
1900年、自らが創設したセブの日刊紙「エル・ヌエボ・ディア(新時代)」において平和的手段を通じた独立運動を推進。1904年、セブ州知事に就任。1906年、独立を綱領とする政党禁止令解除後の民族主義政党合従連衡により結成された国民党の初代党首となった。1907年の第一回総選挙で国民議会議員に当選。1916年二院制議会では下院議長に就任。1923年には上院議員に選出された。
1933年、独立使節団として尽力したアメリカ議会のヘア・ホーズ・カッティング法(10年後の独立承認)はマニュエル・ケソンの反対によりフィリピン議会で批准されず、タイディングス・マクダフィー法を持ち帰ったケソンが1935年コモンウェルス成立時の大統領となり、その下で副大統領となる。1944年8月にアメリカでケソンが病没した事により亡命政府の大統領に昇格した。1944年10月23日、ダグラス・マッカーサーとともにレイテ島レイテ湾に帰還してタクロバンでコモンウェルス政府の復活を宣言、1945年2月27日、マニラに帰還した。戦後初の大統領選マニュエル・ロハスに敗れ、政界を引退した。
1961年10月19日、83歳で死亡。1967年から発行されていた50ペソ紙幣に肖像が使用されていた。




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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