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セルビア救国政府(セルビアきゅうこくせいふ、セルビア語:)は、第二次世界大戦時、ユーゴスラビア王国にナチス・ドイツが侵攻したユーゴスラビア侵攻の後、ナチス・ドイツによって1941年に設置された、ナチス・ドイツの傀儡政権である〔Wolff, Robert Lee, (1956). ''Balkans in Our Time'' Cambridge, Massachusetts, USA: Harvard University Press. P. 203〕〔Tomasević, Jozo. (2001). War and Revolution in Yugoslavia, 1941-1945: Occupation and Collaboration. Stanford University Press.〕〔http://beamte.freepage.de/cgi-bin/feets/freepage_ext/339483x434877d/rewrite/michaelaust/Texte/Zeitungsausschnitte/Serbien.htm〕。セルビア救国政府を称したセルビアの統治機構は、自らを独立国であると位置づけていたが、実際にはドイツ軍政当局の支配下に置かれていた。セルビア救国政府の領土は現在の中央セルビア、およびコソボ北部(コソヴスカ・ミトロヴィツァ周辺)、およびバナト地方であった〔Wolff, Robert Lee, (1956). ''Balkans in Our Time'' Cambridge, Massachusetts, USA: Harvard University Press. P. 204〕。政府の首班はミラン・ネディッチであり、公式には1941年から1944年まで首相の地位にあった〔Bailey, Ronald H. 1980 (original edition from 1978). ''Partisans and guerrillas'' (''World War II''; v. 12). Chicago, Illinois, USA: Time-Life Books. P. 81〕。その地位を支えたのはディミトリイェ・リョティッチ(Dimitrije Ljotić)とファシスト政党ユーゴスラビア国民運動(ZBOR)であった。 == 歴史 == 1941年4月、ドイツとその同盟国はユーゴスラビア王国に侵攻し、占領した。枢軸国に占領されるとユーゴスラビアの領土は解体された。ユーゴスラビア領であった地域のうち、西部のクロアチア、スラヴォニア、ダルマチアの一部、およびボスニア・ヘルツェゴビナの各地方は新しく独立したクロアチア独立国の領土となった。西部のダルマチアの一部および南部のモンテネグロ、コソヴォ・メトヒヤ、マケドニア西部はイタリア王国の占領下となった。北西部のバチュカはハンガリー王国へと割譲された。また、ブルガリアに隣接する中央セルビアの一部地域やヴァルダル・マケドニア地方はブルガリア王国へと割譲された。残されたセルビアの地域はドイツの軍政下に置かれることとなった。 1941年4月30日、ミラン・アチモヴィッチ(Milan Aćimović)の下でナチス・ドイツの傀儡政権が発足した〔Cohen, Phillip J., p.31〕。1941年、バルバロッサ作戦が始まった後、この地域ではドイツやイタリアの占領者に対して、共産主義者ヨシップ・ブロズ・ティトー率いるパルチザンによるゲリラ作戦が始まった。ドイツは戦力をソ連侵攻にとられており、パルチザンの蜂起はドイツ側に深刻な懸念をもたらした。4月13日、セルビアの有力な指導者らを含む546人のセルビア人によって、セルビア国家のナチス当局への忠誠と、パルチザンの蜂起を非愛国的とする非難が表明された〔Cohen, Phillip J., p.32〕。その2週間後、パルチザンの蜂起が勢いを増したことを懸念するナチスに忠実なセルビア人らによって「セルビア救国政府」が設立され、ミラン・ネディッチがその首班となった。4月29日、ドイツ当局はネディッチとその政府に権限を与えた。ネディッチは首相となり、かつてのユーゴスラビア王国の摂政パヴレ・カラジョルジェヴィチが国家元首として承認された。ドイツ側の警察・軍事力は不十分であり、セルビア人の戦力に治安維持を頼らざるを得なかった。〔Cohen, Phillip J., p.34〕。1941年10月、ドイツの監督下におかれたセルビア人の部隊によって、抵抗運動の鎮圧に効果を発揮しはじめた〔Cohen, Phillip J., p.35〕。このセルビア人の部隊はドイツの武器と装備を得ていた。 ネディッチの軍はセルビア国家防衛隊(en)およびセルビア義勇軍団(en)であった。セルビア義勇軍団の初期の隊員の多くはZBORの党員であった。これらの軍事組織の一部はユーゴスラビア王国軍の制服や、イタリアやドイツから購入した制服を着ていた〔Cohen, Phillip J., p.38〕。これらの組織は、直接的、あるいは間接的にクロアチア人やムスリム人、ユダヤ人、そして反ドイツ活動にかかわった、あるいは関わりを疑われたセルビア人に対する虐殺に関わった〔Cohen, Phillip J., various pages〕。紛争終結後、これらの行為へのセルビア人の関与や、ナチス・ドイツとの協力は、歴史修正主義の対象となった〔Cohen, Phillip J. ''Serbia's Secret War: Propaganda and the Deceit of History'' ISBN 0890967601〕。 セルビア領内で複数の強制収容所が設立され、1942年にはベオグラードにて反フリーメイソンの展示が始まり、ベオグラードは「ユダヤ人から解放された」(Judenfrei)と宣言された。1942年4月1日、セルビアのゲシュタポ(en)が組織された。 セルビアにおける実際の権力は、ネディッチの政府よりもドイツの占領当局が握っていた〔War and Revolution in Yugoslavia, 1941-1945: Occupation and Collaboration by Jozo Tomasevich, published 2001 Stanford University Press pg 182 Quote: "Nedic thus headed a government whose powers were strictly limited, one that had no international standing even with the Axis powers. Like its predecessor, it was no more than a subsidiary organ of the German occupation authorities, doing part of the work of administering the country and helping to keep it pacified so that the Germans could exploit it with a minimum of effort, and bearing some of the blame for the harshness of the rule."〕。 ハラルト・トゥルナー(Harald Turner、1941年-1942年)、ヴァルター・ウッペンカンプ(Walter Uppenkamp、1942年)、エーゴン・ベンナー(:de:Egon Bönner、1942年-1943年)、フランツ・ノイハウゼン(Franz Neuhausen、1943年-1944年)がドイツの軍政のトップであった〔。フランツ・ベーメは1941年7月に非常事態権力を与えられ、8月に統治機構ができるまでの間、事実上の支配者であった。軍政顧問(Staatsrat)のハロルト・トゥルナーと親衛隊少尉のフリッツ・シュトラッケ(Fritz Stracke)によって実際の統治のほとんどが行われ、ネディッチは単に形式上のセルビアの指導者として、あるいはドイツのプレゼンスに法的正当性を与えるだけのために機能していた〔http://chgs.umn.edu/histories/otherness/otherness2.html〕。 軍政は、ユーゴスラビアを支配する枢軸の諸勢力に対してセルビア人が抵抗するのを阻止しきれず、ほとんどのセルビア人から支持を得られていなかった。この背景には、ドイツ人の占領者やクロアチアのウスタシャによる、セルビア人に対する激しい蛮行がある。多くのセルビア人たちはドイツやクロアチアのウスタシャへの抵抗に加わっていった。セルビアの軍政は、ナチス・ドイツやウスタシャによるユーゴスラビア支配への抵抗を抑止しようと努めたが、ドイツの占領当局によるセルビア人に対する蛮行はやむことはなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「セルビア救国政府」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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