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セントクロワの戦い : ウィキペディア日本語版
セントクロワの戦い[-のたたかい]

セントクロワの戦い(-のたたかい、Battle at St. Croix)は、ル・ルートル神父戦争中の1750年の春に、ノバスコシアセントクロワで起きた戦闘である。この戦いでは、とミクマク族が3日間にわたって交戦した。
==歴史的背景==

1710年のポートロワイヤルの戦いイギリス領となったにも関わらず、ノバスコシアの大部分の住民は、カトリックを信奉するアカディア人と、ミクマク族だった。この地域への、プロテスタントの入植地の建設を阻むため、ミクマク族は、1715年に、現在のシェルバーンに建設された入植地を、1720年カンゾに建てられた入植地を襲撃した。それから年月が過ぎ、1749年6月21日に、エドワード・コーンウォリスが13隻の輸送艦を率いてハリファックス建設のために到着したのを受けて、ル・ルートル神父戦争が始まった〔Grenier, John. The Far Reaches of Empire. War in Nova Scotia, 1710-1760. Norman: U of Oklahoma P, 2008〕〔Thomas Beamish Akins. History of Halifax, Brookhouse Press. 1895. (2002 edition). p 7〕。イギリスは一方的にハリファックスの建設に取り掛かり、1726年ラル神父戦争後にミクマク族と結んだ条約をないがしろにした〔Wicken, p. 181(資料の情報については翻訳元未記載)〕〔Griffith, p. 390〕。
ハリファックス建設の1年半の間、イギリスはノバスコシアの監視を強化し、主だったアカディア人の集落に砦を築いた。現在のウィンザーエドワード砦)、グランプレ(ヴュー・ロジ砦)、そしてシグネクト地峡ローレンス砦)である。また、アカディアの大都市であるアナポリスロイヤルにもイギリスの砦があり、港と隣接していなかったものの、コベキドにも砦があった)〔John Grenier. ''The Far Reaches of Empire: War in Nova Scotia, 1710-1760.'' Oklahoma University Press.〕。
1749年9月30日、襲撃に先だって40人ほどのミクマク族が、ダートマスで材木を製材していた6人の男を攻撃した。6人のうち4人がその場で殺され、1人が捕囚されたがもう1人は逃げた〔Harry Chapman. In the Wake of the Alderney: Dartmouth, Nova Scotia, 1750-2000. Dartmouth Historical Association. 2000. p. 23.〕。ミクマクに殺されたもののうち、2人は頭皮を剥がれ、他の2人の首は斬り落とされた。レンジャーズ(猟兵隊)の部隊がミクマク族の後を追い、2人の首をはねて1人の頭皮を剥いだ〔Akins, p 18.〕。
1749年10月2日のダートマスへの襲撃への対応として、コーンウォリスはすべてのミクマク族の首に懸賞を掛けた。懸賞額は、その当時フランスが、イギリス人の頭皮1枚につきミクマク族に与えていたのと同額にした〔Akins, p 19.〕。さらに、この任務を遂行するために、2つのレンジャーズの中隊が組織され、うち1つをフランシス・バルテーロ大尉、もう1つをウィリアム・クラファム大尉が指揮して、ジョン・ゴラムの部隊と共に行動した。この3つの隊は、ミクマク族を探して管轄地域を行き来していた〔。10月半ばまでにヴュー・ロジには駐屯兵が入った。条約不履行のため〔Northeast Archaeological Research 〕、そして、ジョージ王戦争後のアーヘンの和約のために、フランスが兵を出せず、ミクマク族のイギリスへの敵意を扇動したため〔大矢タカヤス・H・W・ロングフェロー著 『地図から消えた国、アカディの記憶』 書肆心水、2008年、184頁。 〕、イギリスにいい印象を抱いていなかったミクマク族は、1749年11月27日に、砦の周囲を測量していた中尉ジョン・ハミルトンと18人の兵士を、マリシート族と共に不意打ちし、捕虜にした。その後砦を攻略しようとしたがうまく行かず、捕虜と共にシグネクト地峡へ撤退した〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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