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セントビンセント占領 : ウィキペディア日本語版
セントビンセント占領[せんとびんせんとせんりょう]

セントビンセント占領 (セントビンセントせんりょう、)は、アメリカ独立戦争中盤の1779年16日から6月18日に、フランスイギリス領西インド諸島セントビンセント島を捕獲したものである。フランス軍はトロング・デュ・ルマン勲爵士シャルル・マリーが率いて上陸し、島のイギリス軍が支配していた地域の大半を直ぐに制圧した。この時、島の北部を支配していた地元ブラック・カリブ族がフランス軍を支援した。
イギリスの総督バレンタイン・モリスと軍隊指揮官ジョージ・イーサリントン中佐は、侵略への対応の仕方で意見が合わず、大した抵抗もできずに降伏して終わった。二人とも後に本国からこの降伏について審問された。この占領でフランスによる島の統治が始まり、ブラック・カリブ族による北部の支配も強化された。この地域は1795年の第二次カリブ戦争までブラック・カリブ族に統治されていた。
== 背景 ==
1778年初期に結ばれた仏米同盟によってフランスはアメリカ独立戦争に参戦した。フランス海軍提督のデスタン伯爵は12艦の戦列艦と多くの小型艦艇からなる艦隊を率いて、1778年12月に西インド諸島に到着した〔Mahan, pp. 429–431〕。これと同じ頃、イギリス海軍の提督ウィリアム・ホサムが率いた艦隊も西インド諸島に到着し、サミュエル・バーリントン提督の艦隊を補強した〔Mahan, p. 429〕。イギリス軍は続いてフランスが保持していたセントルシア島を占領した。このときフランス海軍のデスタン艦隊がセントルシアの救援に向かったが、イギリス艦隊を破れなかった。イギリスは、デスタンが作戦本部に使っているフランス軍の主要基地マルティニーク島を監視するためにセントルシア島を使った〔Mahan, pp. 429–432〕。
1779年1月、ジョン・バイロン提督が率いてきた10艦の戦列艦が到着し、イギリス艦隊はさらに強化された。バイロンはイギリス領リーワード諸島の指揮を引き継いだ〔Colomb, p. 388〕。1779年の前半を通じて両国の艦隊はさらに補強を受け、フランス艦隊の方がやや勢力に勝ることになった〔Colomb, pp. 388–389〕。これに加えて、セントキッツ島に集結していたイギリス商船の船団をヨーロッパまで護送するために、バイロンが6月6日にセントルシアを離れたので、デスタンは自由に行動できるようになった。デスタンと総督のド・ブイレ侯爵はこのチャンスを捉えて、近くにあるイギリス領の島々への一連の作戦を開始した。その最初の標的が、セントルシア島のすぐ南にあるセントビンセント島だった〔Colomb, p. 389〕。
セントビンセント島の政治情勢はいくらか緊張していた。島は白人(主にイギリス人)農園主が支配する地域と、地元ブラック・カリブ族が支配する地域とで、ほぼ二分されていた。この2つを分ける境界線は島の北西から南西に引かれ、第一次カリブ戦争の後の1773年に調印された条約で領土に関する合意が形成されていた。双方ともこの妥協の産物に満足してはおらず、条約の条件が摩擦の種になり続けていた〔Craton, pp. 151–153〕。イギリスはカリブ海の領土の中で、農園主達を守るために一連の基地を設立しなければならないという、他ではないような特殊事情があった〔Morris, p. xv〕。
セントビンセント島の植民地政府と守備隊の間にも幾らかの乱れがあった。バレンタイン・モリス総督はこの島が新たな政府として認められた1776年にその任に就いており、当時、島は事実上防御ができていないと報告していた。カリブ族との関係の難しさに加えて、イギリス人は植民地の独立を求める側に同調的でもあった〔。1778年にフランス軍がドミニカを占領したことで、戒厳令を布くことに構造上の問題が生じ、その結果植民地議会は島の防御を固めるための資金配分を拒否した。モリス総督は防御改良のために私財を投じることになり、後に財政上の困窮に陥ることになった〔O'Shaughnessy, pp. 187, 193〕。
この島に駐屯するイギリス軍はジョージ・イーサリントン中佐の指揮するロイヤル・アメリカン連隊の約450名に過ぎず、その大半は訓練の足りない新兵であり、また約半数は実戦には不適だった。イーサリントンはその兵士を訓練したり、島の前進基地に配置したりするよりも、島の北西側にある土地を切り開くためにかなりの数の兵士を使っていた〔Shephard, pp. 36–38〕。イーサリントンの土地はカリブ族が支配する側にあり、その認可土地はカリブ族にとって大きな悩みの種だった。イーサリントンは七年戦争の従軍に対してその土地を得ていたが、カリブ族はそれを違法だと見ていた〔Craton, pp. 148, 190〕。フランスのド・ブイエ総督はカリブ族との接触を保ち、彼らに武器を供与していた〔Shephard, pp. 38–39〕。1778年8月下旬、フランス当局がカリブ族指導者ジョーゼフ・シャトイエと会見し、9月初旬にはカリブ族がフランスの新しいマスケット銃を持って領地を巡回しているのを、モリス総督が目にした〔Taylor, pp. 87–88〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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