|
"ダーティー" ダッチ・マンテル("Dirty" Dutch Mantel、本名:Wayne Maurice Keown、1949年11月29日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。テキサス州パンパ出身〔。 生年は1952年、出身地はカンザス州カンザスシティともされる〔(ギミック上の出身地はテキサス州オイル・トラフ、テネシー州ナッシュビルなど〔)。 現役選手時代はヒールのラフファイターとしてアメリカ南部を主戦場に活躍。引退後はインディー団体のプロデューサーとなって活動し、2003年から2009年にかけてはTNAにてブッカーを担当していた〔。 近年はWWEにて、ゼブ・コルター(Zeb Colter)の名でレスラーのマネージャーを務めている〔。 == 来歴 == 1972年7月8日、NWAジョージア地区のスタジオTVマッチにおいて、アルゼンチン・アポロのジョバーとして ''"Wayne Cowen"'' の名義でデビュー〔。以後、テネシー州メンフィスのNWAミッドアメリカ地区(後のCWA)を中心に、ダッチ・マンテル(''Dutch Mantel'')のリングネームで活動。ロン・バス、デビッド・シュルツ、ジプシー・ジョーらと組んでヒールのキャリアを積み、1978年3月25日にはランディ・サベージを破りNWAミッドアメリカ・ヘビー級王座を獲得した。 1979年にプエルトリコのWWCに遠征、その提携ルートで翌1980年1月、ビル・ロビンソン、ブルーザー・ブロディ、アンジェロ・モスカなどが同時参加した全日本プロレスの『新春ジャイアント・シリーズ』に初来日している〔同シリーズにはワイルド・ビル・アーウィンも初来日していた。マンテルとアーウィンは、共に牛追い鞭を小道具に用いるアウトロー系ヒールであり、1985年の上期にフロリダで "Master of the Bullwhip" と銘打たれた抗争を展開したことがある(The Archives of Championship Wrestling from Florida )。〕。1981年はジム・バーネットの主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングにも参戦し、ケビン・サリバンからNWAジョージア・ジュニアヘビー級王座を奪取した。 以降も1980年代全般に渡ってCWAを主戦場に、喧嘩ファイトを身上とするヒールとして活躍。1981年から1983年にかけて、ジェリー・ローラーやビル・ダンディーとAWA南部ヘビー級王座を巡る抗争を繰り広げた。1984年4月には、テリー・ファンクのブッキングで旧UWFの旗揚げシリーズにボブ・スウィータンやスコット・ケーシーと共に来日。4月11日の大宮スケートセンターにおける開幕戦のメインイベントで前田日明と対戦した。 主戦場のCWAでは1985年11月4日、ヒールターンしたビル・ダンディーと組んでスティーブ・カーンとスタン・レーンのファビュラス・ワンズからAWA南部タッグ王座を奪取。自身も時折フェイスターンを行い、帝王ジェリー・ローラーのタッグパートナーを務めたこともある。ミッドアメリカ・ヘビー級王座にも、ジェシー・バー、デニス・コンドリー、バディ・ランデル、リップ・ロジャースなどを下して再三返り咲いた〔。 1986年、 "ハングマン" ボビー・ジャガーズとカウボーイ系タッグチームのカンザス・ジェイホークス(''The Kansas Jayhawks'')を結成、ジム・クロケット・ジュニア主宰のNWAミッドアトランティック地区にベビーフェイスのポジションで参戦し、ミッドナイト・エクスプレス(デニス・コンドリー&ボビー・イートン)やザ・ラシアンズ(イワン・コロフ&クラッシャー・クルスチェフ)などのチームと抗争。同年11月27日の『スターケード』アトランタ大会では、ラシアンズの保持するUSタッグ王座に挑戦した。 ジェイホークス解散後はアラバマのコンチネンタル・チャンピオンシップ・レスリングにて、1987年4月10日にエイドリアン・ストリートからNWAサウスイースタン・ヘビー級王座を奪取。以降はCWAの後継団体USWAを経て、1990年代初頭はWCWやジム・コルネットのスモーキー・マウンテン・レスリングにおいて、ヒールのマネージャーやカラー・コメンテーターを担当。WCWではブラック・バートとデッドアイ・ディックを配下に、テキサスのアウトローをイメージしたザ・デスペラードス(''The Desperados'')なるユニットを結成、当時WCWに出場していたスタン・ハンセンとの共闘アングルも予定されていたが、ハンセンが日本でのスケジュールを優先させたため実現には到らなかった。 1995年からは、アンクル・ゼベカイア(''Uncle Zebekiah'')を名乗りマネージャーとしてWWFに登場。ジェイコブとイーライのブルー・ブラザーズやジャスティン "ホーク" ブラッドショーなど、南部出身の大型ラフファイターの司令塔となった。1997年にメンフィスのUSWAに戻り、選手としてリングに復帰してジェリー・ローラーとの抗争を再開。同年8月8日にローラーを破り、最後のUSWA統一世界ヘビー級王者となった。 以降は現場を離れ、2000年代初頭はIWAプエルトリコなどのインディー団体でクリエイティブ・コンサルタントを担当。2003年からはメンフィス時代からの間柄であるジェリー&ジェフ・ジャレットの親子が創設したTNAに参画し、ブッキング・チームの一員となって活動した〔。2009年7月31日付でTNAとの契約が終了し、同年12月には自著 "The World According to Dutch" を発表。その後は2011年12月にTNAのジェフ・ジャレットが創設したリング・カ・キングの運営に参画した。 2013年2月11日のRAWにて、ジャック・スワガーのマネージャーとしてゼブ・コルター(''Zeb Colter'')の名でWWEに復帰。排他的な差別主義者をギミックに、グレート・アメリカン(日本語字幕では「建国の父」)としてスワガーに紹介された。その際、過去のギミックからか、カラー・コメンテーターのジェリー・ローラーには「嫌な奴」として、JBLからは「偉人」として評されている。後にスイス人のアントニオ・セザーロも真のアメリカ人として仲間に加え、リアル・アメリカンズのマネージャーとなった〔。 彼らを援護し王座戦線に何度も顔を出させるが失敗を重ね、2014年4月7日にはセザーロに見限られてポール・ヘイマンの下へと去られ、ロブ・ヴァン・ダムも交えてセザーロと抗争を繰り広げた。7月からは、デビュー以来アメリカを罵り続けたルセフと彼のマネージャーのラナに怒りを向け、スワガーと共に宣戦布告するも敗退。その後はボー・ダラスとの抗争を開始したが、12月1日のRAWにてルセフにバックステージで襲撃され、足を負傷したというアングルのもと、長期欠場することになった〔。 その後は2015年10月25日のWWEヘル・イン・ア・セルにて、ジョン・シナが保持するUS王座へのオープン・チャレンジの挑戦者を紹介するために登場し、以前に抗争していたアルベルト・デル・リオを紹介した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダッチ・マンテル」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Dutch Mantel 」があります。 スポンサード リンク
|