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ソムポート・セーンドゥアンチャーイ(1940年5月 - )はタイの脚本家・特撮監督、特撮映画・テレビ番組制作者である。ソンポート・ソンゲンチャイ〔「ソンポート君ガンバレ」 タイの特撮王の伝記映画を上映 ハフィントンポスト 2013年7月17日〕、ソンポテ〔「ウルトラマン訴訟 円谷プロに著作権 タイ最高裁」『読売新聞』2008年2月7日付〕とも表記される。チャイヨー・プロダクションを主宰。 == 経歴 == バンコク近郊のサムットプラーカーン県生まれ。父は広東省出身の華僑〔安藤健二『封印作品の憂鬱』洋泉社 2008年、p.197〕。 バンコク技術専門学校映画科卒業。国営貯蓄銀行の宣伝無勤務時の1962年、特撮映画制作を志して、日本に留学。留学費用はタイの貯蓄銀行と三井銀行が折半した。東宝で円谷英二に師事し、特撮の技術を学ぶ〔『封印作品の憂鬱』pp.197、199〕。 1963年末に帰国して銀行を退社し、チャイヨー・フィルムを興す〔『封印作品の憂鬱』p.201〕。 1970年にテレビシリーズ『チャラワン』を製作〔『封印作品の憂鬱』p.220〕。1973年にはタイ初の本格的な特撮映画、『ターティエン』を製作し、当時のタイ映画の歴代ベスト1となる300万バーツもの売り上げをあげた。翌年には円谷プロダクションと共同で『ターティエン』のキャラクターと円谷プロの『ジャンボーグA』を共演させた『ジャンボーグA&ジャイアント』は『ターティエン』を上回るヒットとなった〔『封印作品の憂鬱』pp.201-202〕。その後も『ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団』など特撮映画を作り続けたが、1985年の『エリマケトカゲ一人旅』以降は映画制作から撤退し〔『封印作品の憂鬱』p.224〕、テレビ番組を製作している。 円谷プロダクション三代目社長の円谷皐とは「兄弟みたいなもの」と言うほど親密な仲で〔『封印作品の憂鬱』p.213〕、前述のようにチャイヨー製のキャラクターと円谷製のキャラクターが共演する映画を合作した他、1973年に『ジャンボーグA』の放送権を得てタイで放送し、翌1974年に『ウルトラマンタロウ』と円谷作品のタイでの放送に関わった〔。 だが、円谷皐の死後の1996年に、「日本以外でウルトラマンのキャラクターを商用目的で利用する権利を持つ契約を交わした」と主張し、日本とタイとでそれぞれ裁判となった。 ウルトラマンシリーズをめぐる裁判中、バンコクに新たにツブラヤ・チャイヨーを設立。タイや中国などでウルトラマンのキャラクターを用いたビジネスを展開した〔『封印作品の憂鬱』pp.117-118〕。 2008年11月に自身が持つと主張する日本国外でのウルトラマンの利用権を日本のユーエム社へ譲渡〔円谷英明『ウルトラマンが泣いている 円谷プロの失敗』講談社現代新書、2013年、p.196〕。 やがて裁判費用の負担や関係者の裏切りによる心労、2011年の大洪水による物理的被害からプロダクションを廃業。 2年をかけてソムポートの足跡跡を関係者に取材した小林應恭監督のドキュメンタリー映画『ソンポート君ガンバレ』が2013年7月に公開された〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ソムポート・セーンドゥアンチャーイ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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