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ソルフェリーノの戦い[そるふぇりーののたたかい]
ソルフェリーノの戦い(ソルフェリーノのたたかい、; )は、第二次イタリア独立戦争中の1859年6月24日、イタリア北部ロンバルディア地方のソルフェリーノを中心に行われた戦闘。ナポレオン3世率いるフランス帝国軍とヴィットーリオ・エマヌエーレ2世率いるサルデーニャ王国軍の連合軍が、フランツ・ヨーゼフ1世率いるオーストリア帝国軍と戦い、フランス・サルデーニャ連合軍が勝利した。 この戦いの後、フランスとオーストリアの間で和平条約が結ばれ、オーストリアはイタリアに対する影響力を喪失した。また、この戦いの現場に遭遇したアンリ・デュナンは、戦場の惨状に強い衝撃を受け、「ソルフェリーノの思い出」と題した書籍を出版、これが後の赤十字運動へつながった。 == 背景 == 1859年3月、イタリアの統一を目指すサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、軍隊の動員を開始した。オーストリアはこれを挑発行為として動員解除を要請、これが受け入れられない場合は宣戦を布告する旨の最後通牒を送り渡した。サルデーニャは要請を黙殺した。同年4月、通牒の期限が切れるのと同時にオーストリアはサルデーニャ領ピエモンテに侵攻、オーストリア・サルデーニャ戦争(第二次イタリア独立戦争)が開始された。同年5月、フランス皇帝ナポレオン3世は、プロンビエールの密約に基づき、サルデーニャの支援にフランス軍を派遣した。数度にわたる戦いの結果、決定的な敗北こそ喫しなかったものの、徐々にオーストリア軍は押されていった。 6月4日のマジェンタの戦いの後、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、軍を後退させて戦力の再編成にかかった。ナポレオン3世は敵の再編成がなる前に攻撃しようと追跡したが、捕捉することはできなかった。6月23日、ある程度再編のなったオーストリア軍はミンチョ川を渡河して、ソルフェリーノを中心に戦闘態勢を整えた。この時、連合軍はすでに間近に迫っていたが、偵察の不備から両軍とも互いを完全に捕捉していなかった。特にナポレオン3世は、まだオーストリア軍がミンチョ川の向こうにいるものと勘違いしていた。6月24日早朝、両軍は予想以上に接近した状態で互いを発見、なし崩し的に戦闘に突入した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ソルフェリーノの戦い」の詳細全文を読む
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