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トニー・ソレイタ(Tolia "Tony" Solaita , 1947年1月15日 - 1990年2月10日)は、アメリカ領サモア出身の元プロ野球選手(一塁手、外野手、指名打者)。通称:「サモアの怪人」。 過去の選手名鑑などの書物には、サモア独立国やソロモン諸島の出身とする誤りの記述もある。 == 来歴・人物 == 9歳の時に事情により、サモアからアメリカ合衆国のハワイ諸島に移る。にニューヨーク・ヤンキースと契約。9月16日にメジャー初昇格。その後は長いマイナーリーグ生活を経て、にカンザスシティ・ロイヤルズでメジャー再昇格を果たす。その後は、カリフォルニア・エンゼルス、モントリオール・エクスポズ、トロント・ブルージェイズと渡り歩いた。 に来日し、日本ハムファイターズに入団。主に指名打者として活躍。来日1年目は5番を打ち、打率が.239と低迷するものの45本塁打を放つなど、その他数々の日本記録を残した。圧巻は大阪球場での対南海ホークス3回戦(ダブルヘッダー第2試合)の1回、佐々木宏一郎から3号3点本塁打を左中間に放つと、3回にも同投手から中堅へ特大ソロ、5回には三浦政基からまた左中間に3点弾、そして8回藤田学のストレートを右翼スタンドにライナーで入る6号本塁打をかっ飛ばした。6回に死球があったものの、4打数連続本塁打はパ・リーグ新記録。1試合での4打数連続は読売ジャイアンツの王貞治が1964年に記録して以来、16年ぶりの日本プロ野球界タイ記録。打点10も日本記録の11に迫る立派なものだった。右に左に真ん中にしめて飛距離は450メートルのホームランショーを演じたことで、この日を境におかげで「打てないポンコツ外人」から「サモアの怪人」に変身した。ソレイタは「1試合3本はメジャーでも打ったことがあるが、4本は初めてだよな。今まで沈む球を強引に引っ張りすぎて失敗していたからね。なので、今日はセンター方向に打ち返すようにしたんだ。」と得意げに話した。翌21日、南海4回戦では杉田久雄の前に第1打席は四球。「まともに勝負してこない投手じゃ、打ちようがないぜ。」と新記録を狙うソレイタはイライラ気味だったそうだ。次の打席で、カウント2-3からボール球に手を出し三振。新記録はならなかった。「また打てばいいさ。」と陽気に振舞っていたソレイタだが、その言葉は年内に現実のものとなった。日本ハムが後期優勝に向かって一進一退の戦いを続けていた9月4日、日生球場での対近鉄バファローズ後期11回戦の9回に柳田豊から32号ソロを放つと、翌日には西武球場での対西武ライオンズ後期7回戦で第1打席から3連発。2日がかりの4打席連続本塁打でシーズン2回の日本新記録を樹立した。アドバイスをくれたのは、メジャー時代からの友人、近鉄のチャーリー・マニエルだった。 翌には4番を打ち、打率.300、44本塁打、108打点という素晴らしい成績を残し、本塁打王と打点王の二冠に輝いた。同期入団のトミー・クルーズと共に日本ハムの19年ぶりとなるリーグ優勝の立役者となったが、MVPはチームメイトの江夏豊に譲る。以後、日本ハムの4番打者として大活躍。 には指名打者部門のベストナインを受賞。 まで4年連続30本塁打以上を記録。1983年限りで退団して現役を引退。故郷のサモアへ帰ると公務員となり、第2の人生をスタートさせたが、1990年2月10日、土地取引のトラブルに巻き込まれ、路上で某住民の手により、銃で射殺された。享年43歳の若さだった。 == 詳細情報 == === 年度別打撃成績 === * 各年度の太字はリーグ最高 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トニー・ソレイタ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tony Solaita 」があります。 スポンサード リンク
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