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タイコンデロガ砦(タイコンデロガとりで、)は、現在のアメリカ合衆国ニューヨーク州ハドソン川峡谷にあるシャンプレーン湖の細くなった南端で、戦略的に重要な場所に作られた18世紀の大きな砦である。七年戦争(アメリカではフレンチ・インディアン戦争)の1754年から1757年の間にフランスが建造し、イギリスとフランスの植民地間抗争では戦略的重要さがあったが、アメリカ独立戦争のときはそれほどの重要さはなかった。タイコンデロガ砦を巡って約20年間に数度の戦いが繰り広げられた。 砦の場所はシャンプレーン湖とジョージ湖の間3.5マイル (5.6 km) にある急流の多いラシュート川河口にそって舟運を支配し、イギリスのアメリカ植民地が支配したハドソン川流域とフランスが支配したセントローレンス川流域を結ぶ交易路を戦略的に抑えるものだった。地形がこの場所の重要性を増した。2つの湖は細くて長く、南北に走り、遠く南のジョージア州まで伸びるアパラチア山脈の多くの稜線が、この場所が支配する大アパラチア渓谷のほとんど通過も困難な山がちの地形を東西につくっていた。タイコンデロガの名前はイロコイ族の言葉(''tekontaró:ken'')で「2つの湖の間の土地」を意味している〔Afable, p. 193〕。 1758年のカリヨンの戦いで、4,000名のフランス守備軍がこの砦の近くで16,000名のイギリス軍による攻撃を撃退した。1759年、イギリス軍が戻ってきて、砦を脅かす高地を占領するだけで砦から一握りの守備隊を追い出した。アメリカ独立戦争のとき、イーサン・アレンとベネディクト・アーノルドが指揮するグリーン・マウンテン・ボーイズなど民兵隊が急襲でこの砦を奪取した。アメリカ大陸軍は1777年6月までこの砦を保持したが、ジョン・バーゴイン将軍の指揮するイギリス軍がやはり砦を見下ろす高地を占領して大陸軍を脅かしたので、大陸軍は砦と周辺の防御地から撤退した。砦に対する唯一の直接攻撃は1777年9月のことで、大陸軍の500名を率いたジョン・ブラウンが約100名のイギリス守備隊から砦を奪おうとしたが失敗した。 サラトガ方面作戦が失敗した後、イギリス軍はこの砦を放棄し、1781年以降は軍事的価値が無くなった。19世紀には地域観光ルートの1つの目的地になった。20世紀初期にはこれを所有していた民間人が砦を改修した。現在は砦を管理する基金が観光案内、博物館および研究センターを運営している。 == 地理と初期の歴史 == ニューヨーク州とバーモント州の州境の一部であるシャンプレーン湖およびハドソン川が、ヨーロッパ人植民者が到着する以前にインディアンが使った重要な移動ルートだった。このルートは船の航行に比較的障害が少なく、わずかばかり陸路を進む必要があるだけだった。このルートの戦略的に重要な場所はシャンプレーン湖の南端近く細くなっている所であり、植民地時代にはラシュート川と呼ばれたタイコンデロガ・クリークがジョージ湖の水をシャンプレーン湖に運んでいる。この場所はシャンプレーン湖の南部を見下ろすことが出来るが、標高853フィート (260 m) のデファイアンス山やその他2つの丘陵(ホープ山とインデペンデンス山)がこの地域を見下ろしている〔Lonergan (1959), p. 2〕。 フランス人探検家のサミュエル・ド・シャンプランが1609年にこの地に初めて到着する以前は長い間インディアンが占有していた。シャンプランは共に旅をしていたアルゴンキン族が近くのイロコイ族集団と戦ったことを報告した〔Lonergan (1959), pp. 5–8〕。1642年、フランスの宣教師イサック・ジョーグが、イロコイ族とヒューロン族に属する者達の間の戦闘から逃れる時に、タイコンデロガの陸路を横切った最初の白人となった〔Lonergan (1959), pp. 9–10〕。 北のセントローレンス川流域を植民地化したフランスと、南のオランダ開拓地を奪ってニューヨーク植民地としたイギリスが、1691年には既にこの地域を巡って争い始めた。このときピーター・スカイラーが湖の西岸にあるタイコンデロガの地に小さな木造の砦を建設した〔Lonergan (1959), pp. 15,18〕。植民地間の紛争は1754年に始まったフレンチ・インディアン戦争でその高みに達した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「タイコンデロガ砦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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