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タウンゼンド侯爵( )は、イギリスの侯爵位。グレートブリテン貴族。 1618年創設のレイナムのタウンゼンド準男爵位、1682年創設のタウンゼンド子爵位を前身とし、1787年に陸軍軍人の第4代タウンゼンド子爵ジョージ・タウンゼンドが叙されたのに始まる爵位である。 == 歴史 == 庶民院議員(1596–1637)は、1617年4月16日にノーフォーク州におけるレイナムの準男爵(13th Baronet, "of Raynham, in the County of Norfolk")に叙せられた。 その次男である第3代準男爵(1630–1687)も庶民院議員を務め、1661年4月20日にノーフォーク州におけるリン・レジスのタウンゼンド男爵(Baron Townshend, of Lynn Regis in the County of Norfolk)、1682年12月11日にノーフォーク州におけるレイナムの第11代タウンゼンド子爵(11th Viscount Townshend, of Raynham in the County of Norfolk)に叙せられた〔。 その長男である第2代タウンゼンド子爵チャールズ・タウンゼンド(1674–1738)は、義兄ウォルポールとともにハノーヴァー朝初期のホイッグ党政権の中枢となり、ウォルポール内閣では外交政策を担当した。しかしやがて外交方針をめぐってウォルポールと対立し、1730年に退任。退任後には領地で農業生活を送り、ノーフォーク農法と呼ばれる穀物輸作法を編み出した。 その孫である4代タウンゼンド子爵ジョージ・タウンゼンド(1724–1807)は、陸軍軍人として七年戦争でカナダ・ケベックにおける戦いなどを指揮した。ホイッグ党の政治家としても活躍し、アイルランド総督(在職1767年-1772年)や(1772年-1782年)を務めた。そして1787年10月31日にタウンゼンド侯爵(Marquess Townshend)に叙せられた。これがタウンゼンド侯爵家の創始となる〔。 ちなみに彼の弟(1725-1767)も政界で活躍し、大ピット内閣で財務大臣を務め、1767年にはアメリカ植民地への課税を盛り込んだタウンゼンド諸法の制定を主導してアメリカ植民地人の反発を買ったことで知られる。 初代侯の息子で2代タウンゼンド侯となる(1753–1811)は、1770年に母の死によりによるイングランド貴族爵位である第17代位と第8代位を継承し、その資格で1774年から貴族院議員となった。さらに1784年5月18日にはグレートブリテン貴族爵位レスター伯爵(Earl of Leicester)に叙せられた。(在職1790年-1794年)や(在職1794年-1799年)、(在職1799年-1802年)などの官職を務めた後、1807年の父の死により第2代タウンゼンド侯爵位を継承している〔。 その息子である3代侯(1778–1855)には子供がなかったので、彼の死とともにレスター伯爵位は廃絶した。チャートリーのフェラーズ男爵とコンプトン男爵位は議会召集令状によるイングランド貴族爵位であるので男子なき場合に姉妹間に優劣のない女系継承が可能であるが、3代侯の姉妹の家系は2つ残っていたため、継承者が決められず、停止(abeyance)となった〔。 それ以外の爵位は3代侯の従兄弟である(1798–1863)(4代タウンゼンド侯)に継承された。彼は襲爵前にから選出されて自由党の庶民院議員を務めていた〔。 その息子である5代侯(1831–1899)も襲爵前に同選挙区から選出されて自由党の庶民院議員を務めている〔。 現在の当主は8代侯(1945-)である〔。 本邸はノーフォーク・にある〔。家訓は「我らが一族のために信頼を得る」(Haec Generi Incrementa Fides)〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「タウンゼンド侯爵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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