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タカマツ・アズマプロダクション(1925年 設立 - 1927年 活動停止)は、かつて第二次世界大戦前に存在した、東京の映画製作会社である。労働運動家高松豊次郎が設立し、南葛飾郡吾嬬町に「タカマツ・プロダクション吾嬬撮影所」をもっていた。 == 略歴・概要 == 1909年に台湾でフランス映画を上映したり、1917年ごろから映画を用いたユニークな啓蒙活動・労働運動にとりくみ、1920年には「活動写真資料研究会」として映画『生活安定の巻』(監督岩岡巽、フィルム現存〔東京国立近代美術館#フィルムセンターサイト内の日本映画の発見I:無声映画時代 を参照。〕)を製作したこともある「呑気楼三昧」こと高松豊次郎が、52歳のときに「高松豊次郎プロダクション」(高松プロダクション、略称高松プロ)として1925年に設立、翌1926年、「タカマツ・プロダクション」を経て同名称に落ち着いた。 1925年(大正14年)、「高松豊次郎プロダクション吾嬬撮影所」を建設・開所、高松操監督の時代劇『義憤の血煙』を設立第一作として製作した。同作は、大阪の「第二新国劇」出身で、聯合映画芸術家協会製作の『弥陀ケ原の殺陣』(監督衣笠貞之助)に出たばかりの脇役俳優、「室町次郎」を主演に抜擢した。室町は同年、日活大将軍撮影所に入社して大河内傳次郎となった。同作を同年9月11日に公開した後数か月は自社製作をせず、同撮影所を「阪東妻三郎プロダクション」、「マキノ・プロダクション」にレンタルした。同社は、マキノ風に「タカマツ・プロダクション」と改名した。 翌1926年(大正15年)2月19日に浅草六区の活動写真館「大東京」で公開された友成用三監督の『燃ゆる情魂 前篇』が、同社改名後の第一作、設立第二作である。その1週間後の2月26日には後篇が封切られた。同作の主演は、「マキノ・プロダクション」が、前年におなじ吾嬬撮影所で連続して撮った4作中3作に主演(うち1作は監督も兼務)した才人・近藤伊与吉、カメラマンには前作『義憤の血煙』にひきつづき小谷三郎であった。小谷は2作の間に同撮影所でマキノプロが製作した『クロスワード』の撮影も担当し、この両名は同社に定着して活躍した。 1927年(昭和2年)の後半には、同社はすでに活動を停止した。わずか1年半の活動期間に23本もの無声映画を遺した。 同社の製作活動停止後、監督たちはほうぼうへ散った。高松操は2年のブランクを経て1930年に河合映画製作社へ、友成用三は松竹下加茂撮影所へ、近藤伊与吉は松竹蒲田撮影所を経て阪東妻三郎プロダクションへ、横田豊秋は片岡松燕プロダクションから日活太秦撮影所へ、持田米彦は撮影技師として東京発声映画製作所へ流れた。江川宇礼雄は、阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所で1本監督したあと、松竹蒲田で俳優として活躍した。長崎武、荒川清の1927年以降の記録は残っていない。助監督には、1927年に日本大学を卒業したばかりの伊賀山正徳がいた〔「アテネ・フランセ文化センター / データベース」の伊賀山正徳(正光) の項を参照。〕。その後伊賀山は日活多摩川撮影所に入社、やがて監督に昇進した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「タカマツ・アズマプロダクション」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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