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タクシーダンスホールは、1920年代のアメリカで人気を集めた男性向けの風俗・娯楽店の一種。チケットを購入して入場し、ダンスホールに待機している女性(タクシーダンサー)に渡すと、1枚につき1曲、ダンスの相手をしてもらえるシステムだった〔〕。「タクシー」は車のタクシー同様、賃貸し、料金制という意味で、料金さえ払えば、誰でも利用できることを表した〔The Taxi-Dance Hall: A Sociological Study in Commercialized Recreation and City Life University of Chicago Sociological Sociology, Paul Goalby Cressey p3〕。1枚で2分ほどしか踊れないため、客は何枚ものチケットを購入しなくてはならなかった。ダンス中にダンサーと交渉し、閉店後同伴する客も多かった。1960年代にほとんどが廃れたが、現在も時間制で女性がダンスなどの相手をする風俗店は存在し、ホステス・クラブ、ジェントルマンズ・クラブなどと呼ばれている〔With A Stranger Falling in love at 40 cents a minute LA Weekly, Jan 20 1999〕。 == 歴史 == 19世紀末にカリフォルニア州でゴールドラッシュが起こると、金鉱掘りの男たちの娯楽場として、ダンスが踊れる居酒屋が繁昌した。とくにサンフランシスコのバーバリーコースト・ダンスホールなどが人気だったが、風紀が乱れるとして、アルコールを提供する場でのダンスを禁止する法律が1913年に発令された。アメリカでは飲酒や売春、ギャンブルに繋がることはプロテスタントの倫理に外れるとして、19世紀後半から徐々に取り締まりが厳しくなっていた〔。 そこで、一般の女性客の入店を禁止し、表向きにはダンス教室の体を装って、チケット制で女性従業員と踊れる男性向けの「タクシーダンスホール」が生まれた。客は入場料として1ドル10セントを払って細長いチケットの綴りを受け取り〔『社交ダンスと日本人』永井良和著〕、バンドが音楽を演奏するホールに入って、待機する女性の中から好みの人にチケットを渡す。受け取った女性はそれを半分にちぎって片方をチケット係に、残りの半分を自分のストッキングの中にしまい、ダンスの相手をする〔。営業は深夜2時ごろまでで、客の目的はダンスより閉店後のダンサーとのデートにあった〔。これも風紀を乱すとして、サンフランシスコでは1921年にタクシーダンサーの雇用を禁止する法律が発令された。 同じころ、このタクシーダンスホールの盛況を見て、他の地方でも似たような形態のダンスホールが現れはじめた。シカゴでは、生徒獲得に悩むダンス学校が、女性のダンス・インストラクターを一列に並ばせて、男性の生徒がチケット制で順番に踊れるシステムを導入した。これは好みのインストラクターを生徒が選ぶことができないため、次第に、好きなインスラクターを選べるチケット制のダンス学校が現れ、繁昌するようになった。 1920年代から1930年代にかけてニューヨークやシカゴなど、アメリカの多くの都市でこのタクシーダンスホールが大流行したが〔、第二次大戦後に次第に廃れていった。現在も、時間制で女性がダンスなどの相手をしてくれる風俗店はあり、チケットの代わりにタイムレコーダーなどが使われている〔。また、チケット制のダンスレッスンは今も多くのダンス学校で採用されている。日本にも、加藤兵次郎によって大正末期にチケット式ダンスが紹介された〔。 現在も時間制でダンスの相手をする人をタクシーダンサーと呼ぶ場合もある。南米では、女性観光客のダンスの相手をする男性タクシーダンサーも繁昌している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「タクシーダンスホール」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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