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タケデンバードは日本の競走馬。中央競馬の重賞であるクモハタ記念(東京1800メートル)と高松宮杯(中京2000メートル)に優勝したが、どちらも(さらに初めての特別戦勝ちも)いわく付きの勝ち鞍であり、魔性の馬・死神などと揶揄された。 なお、クラシックではランドプリンス(皐月賞)・ロングエース(日本ダービー)・イシノヒカル(菊花賞・有馬記念)・タイテエム(天皇賞(春))などのいる「最強世代」と呼ばれた1972年世代の一頭である。 ==戦績== 1971年9月18日に中山でデビューしたタケデンバードは、当レースを5着と6番人気と言う評価から考えると平凡な結果で終わった。その後は、5ヶ月の休暇を挟んでの4戦目の未勝利戦で初勝利を挙げた。この時点では、『単なる遅れて来た最強世代の凡庸な一頭』位の評価でしかなかった。 この評価が一転するのが、1972年7月9日に開催されたダービー〔この年は、流感騒動の煽りを受け、通年より1ヵ月半遅くのレース開催となった。〕出走への足掛かりとなった特別戦・みずばしょう特別であった。4頭もの落馬事故が発生した当レースを、不利を受けず、タケデンバードは圧勝している。 ダービーを11着と言う10番人気から考えると妥当な結果に終わったタケデンバードは、10月22日の条件戦を勝ちオープン馬となった。次のカブトヤマ記念を2番人気で挑んだものの、ハクホオショウに完敗の9着に終わった。次走のクモハタ記念では野平祐二騎手が鞍上となった。 こうして始まったクモハタ記念〔この年のみ、中山で無く府中での開催となった。〕は、先導役と目されたトーヨーアサヒの出遅れと言う波乱のスタートとなった。断然の1番人気・ハクホオショウは先行集団の前の定位置に付け、タケデンバードはハクホオショウをマークすべくその外に位置していた。レースが動いたのは、直線に入ってからで、タケデンバードはラファールと共に抜け出す。ハクホオショウは馬群を抜け出すのに手間取ったものの、直線坂上でタケデンバードを捉えた。タケデンバードは二の足を使い逃げ込みを図るものの、ゴール前でハクホオショウにクビ差交わされたと思われた〔事実、VTRではハクホオショウよりも明らかにクビ差遅れていた。〕。ところが、決勝判定写真の不備〔一部では、『発表時の手違いでは無いか?』とも言われている。〕で優勝馬とされた。当時は相当な物議を醸し、これ以降は写真判定が義務付けられる事になった(タケデンバード事件)。 更に、翌1973年の高松宮杯では、逃げる2番人気のハマノパレード〔前走の宝塚記念を優勝し、関西のエースの地位を掴みかけていた。〕が直線で落馬転倒し競走中止した。このため、離されていた2番手を走っていた同馬が、何の不利も受けずに1着入線。1番人気のベルワイドが3着止まりだった事もあり万馬券決着となった。馬主、調教師は共に不在で、鞍上も今回初騎乗の蓑田早人であった。 翌年連覇を狙って参戦した高松宮杯では、ハイセイコーに完敗。以降は引退迄の2戦共に惨敗。京王杯オータムハンデキャップは落馬競走中止、ラストランとなった毎日王冠は離された殿負けに終わった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「タケデンバード」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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