翻訳と辞書
Words near each other
・ タフト=ハートリー法
・ タフト=ハートレー法
・ タフネス
・ タフネル・パーク駅
・ タフピッチ銅
・ タフブック
・ タフボーイ
・ タフマン
・ タフマンコンテスト
・ タフマースブ1世
タフマースブ2世
・ タフマースプ1世
・ タフマースプ2世
・ タフムルコ山
・ タフムーブメント
・ タフムーラス
・ タフランダン島
・ タフラ=グランデ・ポステ駅
・ タフリナ
・ タフリナ目


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

タフマースブ2世 : ウィキペディア日本語版
タフマースブ2世[たふまーすぶ2せい]

thumb
タフマースブ2世(? - 1732年?、在位:1722年11月 - 1732年)は、サファヴィー朝の第10代君主
父は第9代君主のスルターン・フサイン。父の在位中に皇太子となった。1722年に父がに敗れて降伏・退位すると、彼は王朝の旧都であるカズヴィーンに逃れて正統な後継者として即位した。以後、簒奪したマフムードやアシュラーフと戦いながらイラン北部で抵抗運動を続ける。
この頃、ホラーサーンではを率いるナーディルクリー・ベグが勢力を拡大していた。タフマースブは彼と手を組み、1729年にアシュラーフを破って翌年に処刑した。その後はナーディルの力を得てアフガン族を追い払い、オスマン朝とも交戦してハマダーンを奪ったりした。しかし次第にナーディルとの溝が深まり、対立するようになる。1732年、タフマースブはオスマン朝と交戦して敗れ、屈辱的な講和条約を締結した。これを知ったナーディルは軍を率いてイスファハーンに進軍し、タフマースブは彼によって強制的に退位させられ、跡は生後8ヶ月の息子であるアッバース3世が継ぐことになった。

== 参考文献 ==




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「タフマースブ2世」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.