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タブラ・ペウティンゲリアナ : ウィキペディア日本語版 | ポイティンガー図[ぽいてぃんがーず]
ポイティンガー図(ポイティンガーず)またはタブラ・ペウティンゲリアナ(ラテン語:''Tabula Peutingeriana'')とは、ローマ帝国の駅逓制度(''Cursus publicus'')を表す図解による(''Itinerarium''、道程表)、実質的な道路地図である。これは現存する唯一の写本で、オリジナルの地図は4世紀または5世紀前半に最後の改訂が行われた 〔M. & A. Levi (1967).〕 。ヨーロッパ、北アフリカ、アジアの一部(中東、ペルシア、インド)を含む。ドイツの人文主義者、史籍収集家(Konrad Peutinger、1465年 – 1547年)に因んで名づけられた。 ==来歴==
ポイティンガー図は13世紀にコルマールの修道士によって複製された。オリジナルの図表は5世紀に遡ると考えられる 〔.">Bagrow (2010) .〕 。西暦328年に設置されたコンスタンティノープルを示すが、79年のヴェスヴィオ山の噴火後再建されなかったポンペイが依然として示される。402年より西ローマ帝国の首都となったラウェンナの強調は、5世紀の改訂を Annalina Levi と Mario Levi に示唆した。5世紀中頃に破壊された属州ゲルマニア・インフェリオルのいくつかの都市が ''terminus ante quem'' (''TAQ'' 、下限。それより以前の年代であること)を提示している。図表は初代皇帝アウグストゥスの腹心マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ(紀元前63年 - 紀元前12年)の指揮の下に編纂されたものの系譜に属すると推測される。アグリッパの死後、地図は大理石に彫られ、ローマのアラ・パキスから遠くないウィプサニア柱廊(''Porticus Vipsaniae'')に設置された。4世紀の地図としては明らかに時代遅れに見えるローマ・アラビアの詳細な分析に基づき、グレン・バウアーソックも地図の原型を帝政初期に求めることを支持している 〔Bowersock (1994), pp. 169-170,175,177,178-179,181,182,184.〕 。これによりバウアーソックは、ウィプサニウス・アグリッパの地図についての指摘も行っている 〔Bowersock (1994), p. 185.〕 。 地図はドイツの人文主義者、桂冠詩人の(Conrad Celtes、1459年 - 1508年)によってヴォルムスの書庫で発見された。ツェルティスはこの発見を出版することなく没し、1508年にポイティンガーへ遺贈された。現在はウィーンのオーストリア国立図書館に保存されている 〔受託番号: 写本324。〕 。
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