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タマシン・アレン(Tamasine Allen, 1890年9月30日 - 1976年6月7日)は、アメリカ人の牧師・伝道師。 アメリカ合衆国インディアナ州フランクリン市出身。 1911年(明治44年)にフランクリン大学を卒業後、宣教と奉仕の業を実現すべく日本語を学び、1915年(大正4年)にバプテスト派の宣教師として来日した。東京ミッションスクール校長を経て仙台市と盛岡市で教鞭を執った後、帰国した。 1929年(昭和4年)に再来日し、1931年(昭和6年)8月久慈市に移り、1938年(昭和13年)に社会館久慈幼稚園を開園した。 戦中一時帰国するも戦後すぐに久慈に戻り、社会館久慈診療所を開設し、近隣の医療救済のために奉仕活動を続けるかたわら、1952年(昭和27年)には教育事業を一層充実させるために、学校法人頌美学園の許可を得て、頌美小学校を、さらに1958年(昭和33年)には頌美中学校を開設した(何れも現在は閉校)。これらの小・中学校は一学年の定員が10名で、徹底した少数人格教育を行った。また、大野村に酪農センター「岩手酪農学校」を設立し、酪農技術者を育成した。現在は大野村産業デザインセンターとなっている。また、僻地を訪ね「農民福音学校」を行った。 1970年(昭和45年)4月には英語英文科からなるアレン短期大学(後のアレン国際短期大学、2005年(平成17年)3月廃校)を開学した。 1959年(昭和34年)11月3日、市制施行5周年記念にあたり久慈市名誉市民に推挙された。1968年(昭和43年)秋の叙勲で勲四等瑞宝章、フランクリン大学名誉文学博士号、厚生大臣表彰。1960年(昭和35年)に日米修好通商100年記念功労米国人顕章。 1976年(昭和51年)6月7日に85歳で死去した。 なお、久慈市とフランクリン市は1960年に姉妹都市となった他、アレン短大とフランクリン大学が姉妹校となった。 墓所は久慈市田高にあり、隣接してアレン記念教会が建てられている。 ==来歴== *1890年(明治23年)9月30日 出生(姉は中国の宣教師となる) *1911年(明治44年)6月 フランクリン大学卒業(英文学(シェイクスピア)専攻) *1915年(大正4年)6月 ニューヨーク聖書神学校卒業 *1915年9月 来日、東京、駿台英和女学校校長 *1917年(大正6年)4月 仙台尚絅女学校で英語と聖書を教える *1918年(大正7年)塩竈教会塩竈幼稚園園長となる *1920年(大正9年)福島県いわき市に平信栄幼稚園を設立 *1928年(昭和3年)シカゴ大学神学部大学院卒業、修士号取得。岩手県で伝道活動を始める。 *1929年(昭和4年)遠野幼稚園長、内丸教会盛岡幼稚園長となる *1932年(昭和7年)盛岡商業高校英語教師となる。岩手県九戸郡下閉伊郡を巡回慰問 *1937年(昭和12年)盛岡に頌美幼稚園設立 *1938年(昭和13年)久慈に居を構える。久慈幼稚園設立 *1941年(昭和16年)強制収容により盛岡刑務所・東京拘置所に留置の後米国に強制送還 *1942年(昭和17年)全米遊説。日系収容所で通訳を務める *1947年(昭和22年)再来日。久慈高校英語教師となる *1948年(昭和23年)農民福音学校を始める(17回年)。「社会館診療所」開設 *1952年(昭和27年)学校法人頌美学園設置、理事長に就任。頌美小学校開校 *1958年(昭和33年)頌美中学校開設。酪農センターを大野村に開設し、「岩手酪農学校」設立。酪農技術者を養成 *1959年(昭和34年)フランクリン大学より名誉文学博士称号授与。久慈市名誉市民となる *1964年(昭和39年)米国にて「タマシンアレン伝」出版 *1970年(昭和45年)アレン短期大学開学、学長に就任 *1976年(昭和51年)6月7日 召天。葬儀は久慈市民葬・頌美学園葬によって行われた 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「タマシン・アレン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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