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タマミは日本の競走馬。1970年の桜花賞など中央競馬の重賞競走を5勝し、快足の逃げ馬として知られた。1970年度啓衆社賞最良スプリンターを受賞している。ルックスの面でも人気を博し「美少女」と呼ばれた。 == 経歴 == 3歳8月に東京競馬場でデビューを迎え、初戦で勝利を挙げた。しかし、続く2戦を2着としてからは凡走が続き、条件特別戦を5連敗。年末の条件特別を勝ち2勝目を挙げたものの、この時点では平凡な競走馬だった。 しかし、年明け初戦のオープン戦・4歳牝馬ステークスをレコードタイムで逃げ切って2連勝を遂げると、次走のクイーンカップも2着馬を5馬身突き放して重賞初制覇。この年関東所属馬にはクラシックに向けての有力馬が存在しなかったが、この勝利によりタマミが最有力候補馬となった。 次走から関西入りし、当時開場間もない栗東トレーニングセンターに担当厩務員の蛯名幸作とともに滞在した〔定年を前に…42年ぶり最後の桜 蛯名幸作厩務員/桜花賞 〕〔この例が21世紀に入って「栗東留学」と呼ばれるようになった手法を取った第1号とされている。〕。鞍上がここまでの主戦騎手・田村正光から高橋成忠に変わる。桜花賞トライアル・阪神4歳牝馬特別では2番人気に支持され、関西所属の有力馬・フジノタカヒメを3馬身半突き放しての逃げ切り勝利を収めた。この勝利により一躍桜花賞への最有力馬となり、迎えた桜花賞では1番人気に推された。レースはスタート直後から2番人気のタニノタマナーに競り掛けられる〔1番人気で挑んだ阪神4歳牝馬特別では、控えた作戦が裏目となったのか6着に沈んだ。〕も逆に競り潰し、直線では独走状態となって2着のスターウイングに4馬身差の圧勝。5連勝で桜花賞制覇を果たした。 この圧勝劇に、続くオークスでも圧倒的1番人気となったが、大幅な距離延長と不良馬場に脚を取られて早々に失速し、ジュピックの14着と大敗した。夏の休養を経ての秋緒戦・クイーンステークスも11着に敗れ、次に出走した短距離戦のスプリンターズステークス〔同日の第6レースでハスラー事件が発生し、発走時間が25分遅延している。〕は苦手の不良馬場だったが、持ち前のスピードを活かして一気に逃げ切り、ハナ差で4つ目の重賞を手にした。この年はこれが最後の勝利となり、最優秀4歳牝馬は秋に2度タマミを破ったハーバーゲイムに譲ったが、最良スプリンターのタイトルを受賞した。 明けて5歳となり2戦目の京王杯スプリングハンデキャップを制すると、その後は夏まで走り、オープン戦の巴賞3着を最後に競走馬を引退。繁殖牝馬となった。しかし、その後はこれといった産駒を出せないまま、1977年夏に胃癌で死亡した。11歳の若さだった。後継牝馬は1頭しか残せず、曾孫の代でタマミの血は絶えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「タマミ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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