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タマムラ・ゼンノスキー : ウィキペディア日本語版
玉村方久斗[たまむら ほくと]
玉村 方久斗(たまむら ほくと、本名:善之助、1893年11月13日 - 1951年11月8日〔『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 2 (学術・文芸・芸術篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、692頁。〕)は、大正から昭和初期に、日本画における前衛を追求したことで知られる日本画家。別号に、連城北斗がある〔。本名の玉村善之助、またタマムラ・ゼンノスキーと名乗っての活動もあった。
== 経歴 ==
京都市(後の中京区)の下駄問屋の家に生まれる〔。京都市立美術工芸学校から京都市立絵画専門学校(京都市立芸術大学の前身)に進んで。菊池芳文に師事し、1915年に卒業した〔。
岡本神草甲斐庄楠音入江波光らと日本画研究団体「密栗会」を結成し、展覧会を開催するが、並行して院展にも出品し入選する〔。
1916年に東京へ移り、院展を中心に活動し、1918年には「樗牛賞」を受賞したが、1919年を最後に院展を離れた〔。日本美術院からの脱退は、横山大観との対立が原因であったとされている〔。
以降、1921年には村雲殿一らと「高原会」を結成し、1922年には第一作家同盟(D・S・D)に参加〔、さらに、1924年から1925年にかけての三科〔 - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧〕、1926年単位三科〔 - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧〕といった前衛芸術運動に加わって立体作品や版画に取り組み、雑誌『エポック』や『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム(G・G・P・G)』創刊に参画した〔。後には、雑誌『芸術市場』を創刊した〔。
この時期、玉村自身も人妻との恋愛が噂された中で、妻が、詩人の野川隆と駆け落ちをしてしまう〔。
1930年、方久斗社(ホクト社)を設立し、以降はもっぱら雅号である方久斗を用い、前衛とは異なる方向で日本画家として活動した〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「玉村方久斗」の詳細全文を読む



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