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タヤスツヨシ(1992年 - 2008年)は、日本中央競馬会 (JRA) に登録されていた競走馬。および、ブリーダーズスタリオンステーションで繋養されていた種牡馬である。 1995年の東京優駿(日本ダービー)優勝馬で、サンデーサイレンス産駒初の東京優駿優勝馬でもある。 == 戦績 == 1994年の札幌競馬場でデビューし、3戦目に小島貞博の初騎乗で初勝利を挙げた。その後、OPのもみじSでフジキセキの2着となった後、暮れの阪神競馬場のエリカ賞で2勝目を挙げた。続いてラジオたんぱ杯3歳ステークスに出走し、ナリタキングオーをハナ差競り落としてレコードタイムで優勝した。 翌1995年は共同通信杯4歳ステークスから始動した。このレースは主戦騎手の小島が同日開催の京都記念にチョウカイキャロルへ騎乗するため、武豊に乗り替わった。重賞で初の1番人気に推されたものの、ナリタキングオーに敗れた。その後、小島の手に戻った若葉ステークスも1番人気だったが、不利もあってジェニュインの5着に敗れた。 そして迎えた皐月賞は、この年のクラシック三冠確実と言われていたフジキセキの戦線離脱で混戦ムードが漂っていた。本馬は単勝8.1倍の4番人気まで評価を落としていたが、メンバー中上がり3F最速の36.3の末脚を見せ、ジェニュインにクビ差の2着に入った。 東京優駿では、その皐月賞の走りが評価されて単勝3.1倍の1番人気となった。レースでは中団から駒を進め、4コーナー14番手から上がって34.5の末脚を繰り出し、1着でゴールした。サンデーサイレンス産駒初の東京優駿を制覇し、鞍上の小島貞博は1992年のミホノブルボンに続く当時史上10人目の東京優駿2勝目となった。 しかし、最後の直線コースで斜行したことや良馬場で行われたにもかかわらず、2分27秒3の走破タイムが前週に行われた優駿牝馬(オークス)優勝馬ダンスパートナーの走破タイム2分26秒7よりも遅かったことなどは、当時から本馬の評価を分けることとなった。もっとも、同年のダービーはスローペースでオークスは明らかにハイペースであったことから、単純な比較はし難い面もある。 休養を挟んで迎えた秋の菊花賞戦線では断然の本命馬と目されていたが、神戸新聞杯、京都新聞杯共に1番人気で相次いで敗れた。本番の菊花賞も単勝5番人気まで評価を下げ、レースでも6着に敗退した。エリザベス女王杯を蹴って菊花賞に出走し、5着に入線したダンスパートナーにも先着を許した。 その後は放牧に出され、翌年の天皇賞(春)を目指して調整されていたが、屈腱炎を発症してそのまま現役を引退し、種牡馬入りした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「タヤスツヨシ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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