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タリ=イハンタラの戦いは、継続戦争で起こった戦い。フィンランドとドイツの援軍はこの地域でソ連軍と激突した。スカンジナビア史随一の大戦闘である。フィンランドはソ連側に三倍以上の被害を与え、カレリア地峡でのソ連軍の進軍を停止させた。 ==背景== 1941年6月、フィンランドは継続戦争開始と共にカレリアの旧領を奪回し、それ以降は進軍を停止した。ソ連とフィンランドの間での戦闘は小康状態になっていた。しかしながらソ連がレニングラード包囲戦で勝利すると、スタフカはフィンランドへの反転攻勢を決定し、軍にヴィボルグなど旧領奪回とフィンランド軍の駆逐を命じた。 カレリア地峡でソ連が攻勢に転じたのは連合軍がノルマンディー上陸作戦を始めた1944年6月9日のことであった。この地域で守備を行っていた部隊に更に多くの部隊を補充し、合計3個軍団をフィンランドへの攻勢へ向けた。 ソ連軍は砲撃や爆撃を絡めた全面での強い攻撃によってフィンランド軍が前線で構築していた主防衛線をヴァルケアサーリ付近での戦闘で一日で突破。フィンランド軍は第二の防衛線、VT線へと撤退、シーランマキで防衛線の保持を試みたものの、クーテルセルカで敗北し、ソ連軍の圧倒的かつ巧みな攻勢の前に防衛線を破られ、更に後方のVKT線(ヴィボルグ-クパルサーリ-タイペレ)への退却を余儀なくされた。VT線を放棄するまでにかかった時間はたった一週間であり、更に6月20日、フィンランド軍はVKT線の後部にあったフィンランドの古都ヴィープリ、ロシア語で言うヴィボルグを奪回された。ソ連はヴィボルグを奪回したことで攻勢の第一目標を遂げた。たったの十日程でソ連軍は第一の軍事的目標に達したのである。〔 〔Maanpuolustuskorkeakoulun historian laitos, ''Jatkosodan historia 1-6'', 1994〕 フィンランドはこれまでにも講和を求めていたが、6月21日にももう一度講和を求めた。しかし、ソ連は無条件降伏以外の用件では交渉に着かないと通告した。更にフィンランドの講和の動きに対しドイツは外務相リッベントロップを6月22日に派遣し、フィンランドがドイツの支援ある限り戦い続けるように圧力をかけた。フィンランドはこれを飲まざるを得ず、フィンランドの大統領リスト・リュティはこれを「個人として」受け入れた()。 6月21日、スタフカは攻勢を行うレニングラード方面軍に、勝利の余勢をかってタリ近郊でVKT線を越えサイマー湖に進展、フィンランド軍を壊滅させるように命じた。ソ連軍はフィンランドに抜けるためにタリ=イハンタラ方面に集結した。この地帯は多くの湖、運河などが存在し、カレリア地峡からフィンランド側に出る道のうち、ほぼ唯一機甲部隊が通れる要衝であった。当然フィンランド軍の激しい抵抗が見込まれたが、スタフカはこの難所を突破すれば残る戦闘は扇状に広がるフィンランド領で行われるため、兵力の多いソ連軍がフィンランド軍を押し込むことは難しくないと考えた。このためレニングラード方面軍の多くをこの地帯に投入して一気に突破を図った。スタフカはこの突破を6月28日までに終え、フィンランド戦線を片付けた後、主力をドイツ戦線のバグラチオン作戦に向ける予定であった。 一方、フィンランド軍はあらゆる地方から動員できる軍を全てかき集め、VKT線に集結させつつあった。この地域が戦力を集中して防衛に当たれる最期の場所となっていた。フィンランドは6月12日にドイツに助けを求め、16日、ドイツ空軍部隊クールマイ戦闘団がフィンランドに到着していた。また、大隊規模の第303突撃砲旅団、更にも到着した。更にドイツから物資、更に不足していたパンツァーファウストなどの対戦車兵器も支援として送られてきた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「タリ=イハンタラの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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